伝記
ジョン・ドライデンは、ユリウス暦1631年8月9日に生まれ、グレゴリオ暦1700年5月12日に没したイングランドの詩人、文芸評論家、劇作家である。王政復古時代の文学を支配し、その時代が「ドライデンの時代」と呼ばれるほど影響力が大きかった。
ノーサンプトンシャー州オーンドル近郊のオールドウィンクル村にある、祖父が司祭を務めていた牧師館で生まれた。ピューリタン運動と議会を支援する地主階級の夫妻の間に生まれた14人兄弟の長男である。少年時代は近くのティッチマーシュ村で過ごし、初等教育もここで受けたようである。1644年に王室奨学金学生としてウェストミンスター校に入学した。校長のリチャード・バスビー博士はカリスマ的で非常に厳格な教師であり、ドライデンは明らかにこの校長を尊敬して、のちに2人の息子をこの学校に入れている。学校には修辞学や主張の発表を訓練するカリキュラムがあり、この技術が後の著作や考え方に影響を及ぼした。在学中に、学友が天然痘で亡くなったことへの王党派的な雰囲気のエレジーが初めて出版され、1649年のチャールズ1世の処刑にもほのめかしがあった。
1650年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに進学し、1654年に首席で卒業した。同年6月に父が亡くなり、いくらかの土地が遺されたが、居住するには不充分だった。護国卿時代のロンドンに移り、クロムウェルの国務大臣ジョン・サーローの同僚となった。1658年11月23日のクロムウェルの葬儀には、ミルトンやマーヴェルらとともに参列し、まもなく最初の詩「英雄的スタンザ」を発表してその死を悼んだ。ところが1660年には、王政復古とチャールズ2世の帰還を王党派の頌徳詩で祝福し、空位期間を乱世として描いた。その後、新しい政権を歓迎する詩をさらに書いたが、宮廷の後援は得られず、貴族のためでなく出版業者や読者のための文筆業で生計を立てるようになった。
1663年12月1日に、王党派のロバート・ハワード卿の姉妹エリザベスと結婚し、3人の息子をもうけた。清教徒による禁制が解けて劇場が再開されると、劇の制作で忙しくなった。1663年の最初の劇「野生の色男」は成功とは言えなかったが、1668年からは、年に3作の劇を書く契約を結んだ。劇場用作品は1660年代から70年代の主な収入源で、喜劇の「当世風の結婚」(1672年)や、悲劇の「すべて恋ゆえに」(1678年)が知られる。彼は劇場用作品に満足せず、才能がくだらない観衆のために浪費されているとほのめかして、詩で名を成そうとした。1667年の叙事詩「驚異の年」で名声を高め、桂冠詩人(1668年)と王室歴史家(1670年)の地位を得た。
最大の功績は風刺詩にあり、劇作家トマス・シャドウェルを攻撃した「マクフレクノー」が写本で広まり、その流れは「アブサロムとアキトフェル」(1681年)や「メダル」(1682年)に続いた。国教会の立場から宗教詩「平信徒の宗教」を書き、「牝鹿と豹」(1687年)ではローマ・カトリックへの帰依を祝った。1688年にジェームズ王が退位すると、宮廷に認められなくなり、桂冠詩人の座をシャドウェルに譲った。以後は翻訳に力を注ぎ、1697年に「ウェルギリウス作品集」を出版し、最後の作品集「古代・近代寓話」は1700年に出た。同年に没し、ウェストミンスター寺院に葬られた。18世紀にはポープやジョンソンが彼の詩を手本にし、T・S・エリオットは彼を「18世紀の最もすばらしい詩のほぼ全ての祖」と書いた。
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