伝記
赤﨑勇は、1929年1月30日に鹿児島県川辺郡知覧村(現在の南九州市)に生まれた半導体工学者である。幼いころに鹿児島市へ移り、1949年に旧制第七高等学校造士館を卒業して京都大学理学部に入学した。学生時代は吉田寮に住み、寮の友人と神社仏閣を巡り、夏休みには信州の山々を歩いた。1952年に化学科を卒業している。兄は、プラズマ物理学者の赤崎正則である。
卒業後は神戸工業(現在のデンソーテン)に入り、国産ブラウン管の開発を担当した。1959年には、上司だった有住徹弥が名古屋大学へ移るのに伴って誘いを受け、当初は断ったものの強い要請で同大の有住研究室に入った。助手、講師、助教授を務め、博士論文でゲルマニウムの気相成長を扱って工学博士となった。1964年には松下幸之助の熱望で新設された松下電器東京研究所に招かれ、32歳で最も若い研究室長となる。のちに松下技研の半導体部長を務め、1968年にモスクワの国際会議で世界最高の電子移動度をもつガリウムヒ素を発表して注目された。赤色・緑色の発光ダイオードも手がけ、1979年には日本初の赤色レーザーの発振にも成功している。
1981年に松下技研を辞して名古屋大学工学部の教授となり、独自の研究室を開いた。その研究室からは、最初の指導学生の天野浩をはじめ多くの研究者が育った。ここで取り組んだのが、多くの研究者が撤退した窒化ガリウムの結晶化である。それまで半導体の研究ではほとんど使われなかった有機金属気相成長装置を用い、サファイア基板の上に窒化アルミニウムの低温堆積バッファ層を設ける方法で、1985年に高品質の結晶を初めて実現したとされる。1989年にはマグネシウムを添加し電子線を照射してp型伝導を実現し、p型とn型を接合した青色発光ダイオードを完成させた。1995年には青色の短波長半導体レーザーの室温パルス発振にも成功している。
この成果を知った豊田合成の申し入れで、1986年に産学連携の青色発光ダイオード製品化プロジェクトが始まった。1991年には、豊田合成が実用的な発光度を達成したとの認定が科学技術振興機構から出されている。青色LEDや窒化物半導体に関する論文は約700編、取得した特許は221件以上にのぼるとされる。
一方、日本電信電話の研究所に招かれた1988年3月には、これを知った研究員の松岡隆志が計算を重ね、翌年3月に窒化インジウムガリウムの作成に成功した。この物質は青色LEDの実用化に重要な役割を果たしたとされる。窒化ガリウムによる青色LEDの誕生は国際会議でも大きな反響を呼び、1993年から2002年の10年間だけで基調講演や招待講演が140件を超えた。この成果は、のちの大容量の光ディスクの開発にもつながったとされる。
1992年に名古屋大学を定年退官して名誉教授となり、名城大学理工学部教授に就いた。名古屋大学には特許料を建設費の一部に用いた赤﨑記念研究館が建てられ、2006年10月に開館した。名古屋大学の豊田講堂の時計塔には、青色LEDの業績をたたえるイルミネーション時計も設置されている。日本学士院会員となり、京都大学名誉博士の称号も受けた。恩賜賞や文化勲章を受け、2014年には天野浩、中村修二とともにノーベル物理学賞を受賞した。2021年4月1日、気管支肺炎のため名古屋市内の病院で亡くなった。92歳であった。死没日をもって従三位に叙された。
同じ年に亡くなった人物
- クリスタ・シュトゥブニック (2021年没)
- ウラジーミル・シャタロフ (2021年没)
- カーティス・フラー (2021年没)
- スヴァンテ・スレッソン (2021年没)
- 李完九 (2021年没)
同じ地域に関係する人物
- 白瀬矗 (1946年没)
- 織田信孝 (1583年没)
- 三浦哲郎 (サッカー指導者) (2018年没)
- 汪兆銘 (1944年没)
- 豊田章一郎 (2023年没)