伝記
マイケル・コリンズは、1930年10月31日にイタリアのローマで生まれ、2021年4月28日に没したアメリカの宇宙飛行士であり、空軍軍人である。ジェミニ10号とアポロ11号に搭乗し、アポロ11号では司令船コロンビアを操縦して月を周回した。
父ジェームズ・ローレンス・コリンズは職業軍人の陸軍士官で、1928年から1932年までローマの駐在武官を務めていた。母はヴァージニアで、兄と姉二人がいた。父の任地が変わるたびに引っ越し、17歳になるまでにローマのほか、オクラホマ、ニューヨークのガバナーズ島、ボルチモア近郊、オハイオ州コロンバス近郊、プエルトリコ、テキサス州サンアントニオ、バージニア州アレクサンドリアなどに住んだ。少年のころはワシントンの大聖堂で侍者を務め、本人の言葉では「ボーイスカウトだったことのない、おそらく唯一の宇宙飛行士」だった。プエルトリコで初めて飛行機に乗り、操縦士に頼んで飛行の一部を操縦させてもらったが、まもなく第二次世界大戦が始まって再び飛ぶ機会はなかった。戦争が始まるとワシントンに移り、1948年にセント・オールバンズ校を卒業した。母は外交官になることを望んだが、本人は父、兄、叔父たちに続いて軍に進む道を選んだ。父と兄も卒業した陸軍士官学校に入り、1952年6月3日に卒業した。同期には、のちに宇宙飛行士となるエド・ホワイトがいた。
空軍を選んだのは、これから半世紀の航空の発展に魅力を感じたことに加え、陸軍では兄がすでに大佐で、父は少将、叔父は陸軍参謀総長だったため、縁故の疑いを避けたかったからである。空軍士官学校はまだ建設中で、当面は陸軍士官学校の卒業生にも空軍の任官が認められていた。1952年8月にT-6テキサンで基本の飛行訓練を始め、ジェット機の訓練を経て、1953年9月にはネリス空軍基地でF-86セイバーによる昼間戦闘機の上級訓練に選ばれた。この訓練は危険で、彼が在籍した22週間のあいだに11人が事故で死んだ。のちにF-86戦闘機の操縦士としてフランスの基地に勤務し、1960年にはエドワーズ空軍基地の試験飛行士学校を修了した。1962年のジョン・グレンの宇宙飛行に影響を受けて宇宙飛行士を志願し、1963年にアメリカ航空宇宙局の第3期、14人の宇宙飛行士の一人に選ばれた。
ジェミニ計画ではジェミニ7号の予備搭乗員に選ばれ、1966年7月にはジェミニ10号にパイロットとして搭乗して初めて宇宙へ飛んだ。船長ジョン・ヤングとともに2機の宇宙船のランデブーを行い、2回の船外活動をこなした。1969年のアポロ11号では司令船パイロットを務めた。ニール・アームストロングとバズ・オルドリンが着陸船で月面に降りた間、コリンズは月周回軌道上で司令船の操縦や月面の写真撮影などを行い、月を30周した。そのため自身は月面に降りておらず、「忘れられた宇宙飛行士」と呼ばれることもある。
1970年に同局を退き、国務省で広報担当の国務次官補を務めた。翌年、国立航空宇宙博物館の館長となり、1978年にスミソニアン協会の副所長に就いた。1980年にLTVエアロスペースの副社長となり、1985年に退社して自分のコンサルタント会社を始めた。空軍では准将で退役したともされ、空軍予備役の少将だったともいわれる。1969年にはコリアー・トロフィーと大統領自由勲章を受け、訪日した際には日本政府から文化勲章を贈られた。2011年には議会金メダルを受けた。2021年4月28日に死去したことは、本人のアカウントを通じて家族が発表した。
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