伝記
ジョルジェ・サンパイオは、1939年9月18日にリスボンで生まれ、2021年9月10日に没したポルトガルの政治家である。1996年3月9日から2006年3月9日までポルトガル第三共和政の第5代大統領を務めた。所属政党は社会党である。
父は公衆衛生を専門とする著名な医師アルナルド・サンパイオで、母はフェルナンダ・ベンサウデ・ブランコである。母方の祖父フェルナンド・ブランコは、独裁体制期に外務大臣や海軍大臣を務めた人物で、祖母の家系はユダヤ系のベンサウデ家であった。本人は祖先がユダヤ系であると述べたが、無神論者で、自らをユダヤ人とは見なしていない。弟には精神科医のダニエル・サンパイオがいる。4歳までシントラで暮らし、父がジョンズ・ホプキンス大学で公衆衛生を学ぶ奨学金を得たため、1947年に一家でアメリカのボルチモアへ移った。1年ほど現地の公立学校に通い、ピーボディ音楽院で音楽も学んだ。帰国後はリスボンのリセウで学び、1952年には父が研究していたロンドンで下院の討論を傍聴し、強い印象を受けたという。1956年にリスボン大学法学部に入学し、1961年に卒業した。
政治への関わりは学生時代に始まる。サラザール体制に反対し、まだ選挙権がなかったにもかかわらずウンベルト・デルガードの大統領選出馬を支持した。法学部学生協会の会長を1959年から1961年まで務め、1961年から1962年には学生団体の連合組織の事務総長となった。1962年に政府が学生の日の行事を禁じたことから始まった学生運動の高まり、いわゆる大学危機の中心人物の一人であり、大学食堂でのハンガーストライキの後には3日間拘束された。同じ1962年にはジョアン・クラヴィーニョらと急進左派のMARを結成し、7月に秘密警察が自宅を捜索して、9月に尋問を受けた。その後は進歩的カトリックの雑誌にも寄稿した。1968年8月にはパリでアルバロ・クニャルと会ったが、チェコスロバキア侵攻に反対だったため共産党への入党は断った。1969年の総選挙では野党の民主選挙委員会の名簿に名を連ねた。
卒業後は弁護士となり、1963年に実習を終えた。工業所有権を専門としながら、無報酬で政治犯の弁護にも当たり、マリオ・ソアレスに頼まれてベジャ事件の被告の一人を弁護したこともある。1965年には奨学金で約4か月アメリカに滞在し、ワシントンの上院でエドワードとロバートのケネディの演説を聞いて、大きな影響を受けた。1977年には法律事務所に加わり、弁護士会の役職も務めた。
1974年4月25日のカーネーション革命の後、自らMES(社会左翼運動)を創立したが、まもなく活動を停止した。1978年に社会党に入り、翌1979年にリスボン選挙区から立候補して当選し、国会議員となった。1989年にリスボン市長に当選し、1993年に再選された。1995年に大統領選への出馬を表明し、前首相アニーバル・カヴァコ・シルヴァを破って当選した。就任は1996年である。堅実な政局運営で知られ、社会政策と文化政策を政策の軸とした。2000年の選挙で再選されている。
退任後は、2005年5月から国連事務総長の結核撲滅担当特使、2007年4月から「文明間の同盟」国連高等代表を務めた。2021年8月27日に呼吸困難でリスボンの病院に入院し、9月10日に81歳で亡くなった。
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