伝記
全斗煥(チョン・ドゥファン)は、1931年3月6日に慶尚南道陜川に生まれ、2021年11月23日に没した韓国の軍人・政治家である。第11・12代大統領を1980年から1988年まで務め、軍での最終階級は陸軍大将であった。
生家は没落した両班の家柄で、父は民間療法で村人を診ていたという。6男4女の4男に生まれ、5歳で大邱に移った。家の都合で小学校を休学し、納豆売りなどで家計を助け、一家で満洲へ移ったが父の医院はうまくいかず、1941年に大邱へ戻った。大邱公立工業学校を1950年に卒業した。成績は優秀で大学進学を望んだものの、家の経済事情から士官学校を受験し、朝鮮戦争中に陸軍士官学校(11期)に入った。同期に盧泰愚がおり、のちに朴正煕の黙認のもとで、軍内の秘密結社「ハナフェ」を彼らと形成した。1961年に朴正煕がクーデターを起こすと支持を表明し、士官学校生徒に支持行進をさせた。その功績で最高会議議長秘書官となり、のちにベトナム戦争にも連隊長として参加した。特殊戦司令部の創設後は空輸特戦団長などを務め、少将に昇進し、1979年に国軍保安司令官に就いた。
1979年10月26日に朴正煕暗殺事件が起こると、戒厳司令部合同捜査本部長として金載圭を逮捕し捜査を指揮した。その過程で実力者と目されるようになり、陸軍参謀総長の鄭昇和と対立を深めた。ハナフェを問題視する鄭昇和に排除されかねなくなったため、12月12日にハナフェのメンバーらとクーデターを実行し、鄭昇和を逮捕した(粛軍クーデター)。就任直後の崔圭夏大統領は黙認せざるを得ず、軍首脳部はハナフェとその後援者で固められ、全斗煥は「新軍部」の中心となった。
1980年5月17日、非常戒厳令を全国に拡大し、金大中ら野党側の政治家を逮捕・軟禁した。これに反発した光州の民主化要求デモの鎮圧に陸軍部隊を送り、市民が多数殺害された(光州事件)。その後、国家保衛非常対策委員会を組織して国政を事実上掌握し、社会悪一掃を掲げて約4万人を一斉に逮捕して三清教育隊で過酷な訓練と強制労働を課した。同年8月に崔圭夏が辞任すると、統一主体国民会議で大統領に選出され、9月1日に就任した。憲法を改正して1981年に第12代大統領となり、第五共和国が始まった。在任中は夜間外出禁止令の解除、プロ野球の開始、ソウルオリンピックの準備などが行われた一方、言論基本法による言論統廃合など反政府活動の取り締まりも強まった。1983年にはミャンマーで北朝鮮工作員による爆弾テロに遭い、本人は難を逃れたが多くの閣僚が犠牲になった。1984年には戦後の韓国元首として初めて日本を訪れ、昭和天皇との晩餐会に臨んだ。
1987年1月に学生の朴鐘哲が警察の拷問で死亡し、6月には学生の李韓烈が催涙弾を受けて倒れるなか、全国で30万人を超える人々がデモに参加した(6月民主抗争)。盧泰愚が大幅な譲歩を提言し(6・29民主化宣言)、全斗煥も受け入れた。同年暮れの直接選挙で盧泰愚が当選し、翌年2月に後任となった。
退任後は国家元老諮問会議議長となったが、親族が逮捕されて1988年4月に辞任し、11月に私財の献納と隠遁を表明した。1995年12月に拘束され、1996年8月に内乱罪で死刑判決を受けたが、1997年12月に減刑のうえ特赦された。同年には不正蓄財で追徴金2205億ウォンを課す判決も出ている。2017年の回顧録の光州事件に関する記述で死者への名誉毀損の罪に問われ、2021年に死去した。独裁者・虐殺者として否定的に見られる一方、経済発展などを評価する擁護論もある。