伝記
フレデリック・ウィレム・デクラークは、1936年3月18日にヨハネスブルグ郊外のメイフェアで生まれた南アフリカ共和国の政治家である。アフリカーンス語では「デクレルク」と発音される。アパルトヘイト体制の解体に大きな役割を果たし、1993年にネルソン・マンデラとともにノーベル平和賞を受けた。
生家は国民党と深い縁を持つ有力なアフリカーナーの一族であった。父ヤンは国民党の政治家で上院議長や大統領代行、閣僚を務め、曽祖父も上院議員、祖父は聖職者で、父方の叔母の夫は元首相のストレイドムである。家族で政治を論じ合う環境で育ち、のちに国民党から離れて民主党を創設する兄ウィレムは、保守的な弟の意見にしばしば異を唱えたという。デクラークが12歳のとき、アパルトヘイトが政府によって制度化された。1958年にポッチェフストローム大学の法律科を卒業して弁護士となり、1972年に国民党の国会議員に選ばれて、父の後を継ぐように政界に入った。
1978年に郵政相として初めて入閣し、1982年に内相、1984年からは国民教育相や白人閣僚評議会議長を務めた。閣僚としてはアパルトヘイトを支持し、その施行にもかかわった。1989年2月、大統領ボータの後任として国民党党首に指名され、のちに正式に大統領に選ばれた。大統領がボータの路線を引き継ぐと見る向きが多かったが、デクラークは民族間の敵意と暴力が拡大して人種間の内戦に至りかねないと認識し、政策の転換を決めたとされる。
アフリカ民族会議(ANC)などの非合法化を解き、ANC指導者のマンデラを釈放した。1990年6月には非常事態宣言を解除し、1991年2月の国会演説ではすべてのアパルトヘイト法の廃止を宣言した。同年6月には人口登録法などが廃止され、アパルトヘイトは法制度のうえで撤廃された。マンデラとの交渉で全人種参加の選挙への移行を進め、1993年にはアパルトヘイトがもたらした害について公に謝罪した。核兵器計画の解体も行っている。一方、この時期の混乱のなかで治安部隊が広範な人権侵害を行い、コーサ人とズールー人の対立をあおったとされるが、デクラーク自身はそうした行為を認可したことを後に否定した。
1994年の非人種選挙ではマンデラ率いるANCが勝ち、国民党は第2党となった。デクラークは副大統領の一人として挙国一致政府に加わり、経済の自由主義的政策の継続を支持した。他方、過去の人権侵害を調べる真実和解委員会には反対し、政治犯罪への全面的な恩赦を望んだ。マンデラとの関係はぎくしゃくしたが、後年は好意をこめて語った。1996年5月、新憲法をめぐる国民党の反対を受けて連立を離脱し、6月30日に副大統領を辞任した。1997年9月には党首も辞めて政界を退き、以後は各地で講演を行った。
評価は割れた。ノーベル平和賞をはじめ多くの賞を受けた一方、反アパルトヘイトの活動家からは、謝罪が限定的だとか治安部隊の人権侵害を黙殺したなどと批判され、アパルトヘイトの支持者からは、体制を捨ててアフリカーナー少数派の利益を裏切ったと非難された。2020年2月には「アパルトヘイトは人道に対する罪ではなかった」と主張して批判を浴び、17日に発言を撤回して謝罪した。晩年は中皮腫で闘病し、2021年11月11日、ケープタウンの自宅で85歳で死去した。ラマポーザ大統領は4日間の服喪と半旗の掲揚を指示した。死後には財団から、アパルトヘイトへの反省と南アフリカの発展への願いを語る7分間の動画が公開された。
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