伝記
ジャン=ポール・ベルモンドは、1933年4月9日にパリ郊外のヌイイ=シュル=セーヌで生まれ、2021年9月6日に没したフランスの俳優である。シリアスなドラマからアクション・コメディまで幅広い作品に出て、20世紀後半のフランスを代表する俳優の一人とされる。実子のポール・ベルモンドは、元F1ドライバーである。
父ポールはイタリア系フランス人の彫刻家で画家、フランス美術アカデミーの会長も務め、母も画家であった。子どものころは体が弱く、静養のため田舎の農家に預けられたが、健康を取り戻すとサッカーに熱中してゴールキーパーを務めた。15歳でボクサーになる夢を見たのをきっかけにボクシングに打ち込み、両親に無断でクラブに入った。しかし父に反対され、夢は果たせなかった。1949年、16歳で演劇に興味を持ち、国立高等演劇学校の試験を受けたが落ちた。別の演劇学校で準備を続け、1950年7月3日、パリの病院を巡回する一座で『眠れる森の美女』の王子役として初舞台に立った。1951年に念願の国立高等演劇学校へ入り、アルバイトをしながら学んだ。1953年にはパリの二つの芝居で主役を務め、この年ルネ・コンスタンスと結婚して、翌年に子が生まれた。1956年に同校を修了し、卒業直後の公演では賞を得た。
1957年に端役で映画に出はじめ、1958年にはギイ・ブドス監督の『黙って抱いて』に無名時代のアラン・ドロンとともに出演した。同年、ジャン=リュック・ゴダール監督の短編『シャルロットとジュール』に主演したが、撮影後に兵役へ出たため、声はゴダール自身が吹き込んだ。1959年にはクロード・シャブロル監督の『二重の鍵』で重要な役を得て注目され、同年8月からゴダールの『勝手にしやがれ』を撮影した。1960年3月に公開された同作はヌーヴェルヴァーグの代表作として大ヒットし、一躍映画スターの座に押し上げた。
1963年の『バナナの皮』あたりから娯楽色の強い映画が増え、同年の『リオの男』で決定的になった。危険なアクションも多い冒険物語だが、スポーツマンのベルモンドはスタントを自ら演じ、アクション俳優というイメージが生まれた。1965年の『カトマンズの男』で共演したウルスラ・アンドレスと恋に落ち、1966年9月19日に離婚した。同年のゴダールの『気狂いピエロ』に主演したが、シナリオを使わないやり方を批判し、二度とゴダールとは仕事をしないと宣言した。1969年にはドロンの申し出で初めて本格的に共演した『ボルサリーノ』が、85万人を動員する大ヒットとなった。ドロンが自ら製作した主演作を当てたのに触発され、祖母ロジーナ・セリートにちなむ製作会社セリトフィルムズを設立し、1972年の『ジャン=ポール・ベルモンドの交換結婚』から製作に関わった。1974年には出演料がドロンやルイ・ド・フュネスを抜き、フランスで最高になった。
2001年8月に脳梗塞を発症し、その後は復帰してテレビやドキュメンタリーに出たが、手足が不自由になり、第一線を退いた。2011年にカンヌ国際映画祭でパルム・ドール・ドヌールを受け、2019年7月にはレジオンドヌール勲章を授与された。2021年9月6日、パリの自宅で亡くなった。同月10日には、俳優としては異例の国の追悼式がアンヴァリッドで営まれ、マクロン大統領が弔辞を読んだ。ドロンは「私の人生の一部なんだ」と語った。
フランス映画への思いから、英語圏の映画には出なかったといわれる。日本でも1960年代から70年代にドロンと並ぶ人気を得て、2020年の特集上映も大きな反響を呼んだ。
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