伝記
益川敏英は、1940年2月7日に愛知県名古屋市中川区で生まれた日本の理論物理学者である。専門は素粒子理論で、2008年にノーベル物理学賞を受けた。生家は戦前は家具製造業、戦後は砂糖問屋を営んでいた。戦後は昭和区や西区で少年期を過ごし、幼いころには名古屋大空襲で自宅が米軍の焼夷弾の直撃を受けたという。
高校1年のとき、科学雑誌で名古屋大学の坂田昌一教授が素粒子の「坂田モデル」を発表したことを知り、自分も名古屋大学で物理学を学びたいと思うようになった。父は砂糖問屋を継がせたかったが、1回だけという条件で受験を許され、名古屋大学理学部に進んだ。大学院入試では数学と物理学が満点だった一方、ドイツ語は白紙、英語も散々な出来で、合否が入試委員会で問題になったという。1967年に理学博士の学位を得ている。学生時代から議論好きで、「いちゃもんの益川」と呼ばれた。湯川秀樹にもいちゃもんをつけたという逸話がある。
1970年に京都大学理学部の助手となり、1973年には名古屋大学の後輩にあたる小林誠とともに、弱い相互作用に関するカビボ・小林・益川行列を導入した。この論文は、日本人物理学者の論文として最も多く引用されたものとされる。当時は京都大学職員組合の書記長として組合の仕事にも追われており、朝は通勤途中の喫茶店で思索し、昼は組合業務をこなし、その合間に小林と議論して研究を進めたという。のち京都大学基礎物理学研究所の所長を1997年から2003年まで務め、日本学術会議の会員も経た。これ以前にも、1979年に仁科記念賞、1985年に日本学士院賞を受けており、2001年に文化功労者、受賞の年には文化勲章を受けた。2009年には京都市名誉市民となっている。
2008年、小林・益川理論の業績によって、南部陽一郎、小林誠とともにノーベル物理学賞を受けた。受賞後の記者会見では「大してうれしくない」「36年前の過去の仕事ですから」と答え、科学はノーベル賞を目標にしてきたのではないと語った。南部が受賞したことが一番うれしいとも述べている。外国語は大の苦手で、長らくパスポートを取ったことがなく、同年12月にストックホルムで開かれた授賞式が初の海外渡航となった。受賞記念講演では、最初に「英語が話せません」とだけ英語で述べて笑いを誘い、そのあとは通訳つきの日本語で講演した。論文を英語で発表するときの署名には、ローマ字の「u」を除いた綴りを好んで用いた。
受賞後は、日本の教育に対して苦言を呈した。2008年10月には文部科学大臣に面会し、結果ばかりを求める「教育汚染」を批判した。基礎科学への研究費の配分が不十分だとも指摘し、「大学の基礎科学が危ない」と警鐘を鳴らした。2011年には、安全に使うために実験炉を建設して原発の研究を続けるべきだと語っている。平和運動にも熱心で、60年安保やベトナム反戦の運動に加わり、2005年には「九条科学者の会」の呼びかけ人となった。クラシック音楽を好み、最も好きな曲にバルトークの「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」を挙げていた。京都産業大学では2009年から益川塾の塾頭を務め、名古屋大学素粒子宇宙起源研究機構では2010年に機構長となって、2018年に名誉機構長に退いた。選択的夫婦別姓の導入を支持し、政治家の靖国神社参拝を批判する立場でもあった。2021年7月23日、上顎歯肉がんのため京都市内の自宅で死去した。
同じ年に亡くなった人物
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