伝記
カルロス・メネム(カルロス・サウル・メネム)は、1930年7月2日に生まれ、2021年2月14日に90歳で没したアルゼンチンの政治家である。1989年から1999年まで2期にわたって大統領を務めた。アルゼンチン西部のラ・リオハ州アニリャコで、シリア移民のムスリムの家庭に生まれたアラブ系アルゼンチン人であり、最初の妻もシリア系であった。コルドバ国立大学で法学を学び、1957年には反軍政活動に参加して逮捕された経験がある。
1973年、ペロン政権の下でラ・リオハ州知事に当選したが、その後に成立した軍事政権によって逮捕され、約1年8か月にわたり裁判なしで拘束されたという。1983年に軍政が崩壊して民政に復帰すると釈放され、再び州知事に復帰した。1989年には大統領選に立候補して当選し、急進市民連合から正義党(ペロン党)が政権を奪回した。就任は同年7月8日で、前任はラウル・アルフォンシンであり、当時の国は超インフレの最中にあった。当時のアルゼンチンでは大統領はカトリックでなければならなかったため、メネムはイスラームからカトリックへ改宗した。ただしシリアとの結びつきは絶たれなかった。
その政策は、ポピュリズムと評されるペロン派の伝統的な政策とは異なり、非常に新自由主義的で親米的であった。規制緩和を進め、石油・郵便・電気・ガス・水道などの公営企業を次々と民営化し、その多くが外国資本の傘下に入った。経済相ドミンゴ・カバーロが設計した、通貨を1ドル=1ペソに固定する政策で外国からの投資を呼び込み、インフレは歴史的な低水準に下がった。アルゼンチン経済は外見上、急速に回復したのである。1994年には二大政党の合意にもとづく大幅な憲法改正を行い、これによって1995年の選挙に再出馬して大差で再選された。軍の反乱も抑えた。一方で、民営化により失業率が上昇して貧富の差が広がり、外国からの投資の拡大は累積債務の拡大にもつながった。財政は放漫なままで、投資で赤字を穴埋めしていたのが実状だったという。最高裁判事9人のうち5人を指名したことで司法の独立も疑問視された。
2期目に入るとドルが国際的に上昇し、アジア、メキシコ、ブラジルの通貨危機で各国通貨が暴落するなか、アルゼンチンだけがペソ高政策を維持したため、輸出産業は打撃を受けて経済は悪化した。政権内部の腐敗も表面化し、支持率は急低下した。それでも3選に意欲を燃やしたが、ネストル・キルチネルとの党内抗争に敗れ、ペロン党の候補にはなれなかった。後任候補のドゥアルデも選挙に敗れ、ペロン党は政権を失った。後継のデ・ラ・ルア政権は事態を改善できないまま、2001年12月に債務不履行を宣言し、経済は崩壊した。その原因はメネム政権の経済運営にあったと考えられている。
それでもメネムは2003年の大統領選に三たび立候補し、第1回投票では約25%の得票で1位となった。しかしキルチネルとの決選投票では惨敗が確実視されたため、政治的影響力の低下を恐れて出馬を辞退し、キルチネルの当選が決まった。退任後は政界の長老として、2005年から2019年までラ・リオハ州選出の上院議員を務めた。政権の高官への上乗せ給与の支払いなどをめぐり、横領で有罪ともされた。また2013年にはクロアチアとエクアドルへの武器密輸の容疑で有罪判決を受けた。サッカーが好きで、リーベル・プレートの大ファンであった。
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