伝記
イビチャ・オシムは、1941年5月6日に生まれ、2022年5月1日に没したボスニア・ヘルツェゴビナのサッカー選手、指導者である。愛称はシュワーボ。旧ユーゴスラビア代表の最後の監督であり、日本ではジェフユナイテッド市原・千葉と日本代表の監督を務めた。
労働者の居住区であったサラエヴォのグルバビツァで、父ミハイリ、母カタリーナの長子として生まれた。ドイツ人の血を引き、ミュンヘン出身の母方の祖母の影響で家庭ではドイツ語が中心だった。娯楽も物資も乏しい街で、靴下を丸めたものをボールにして路上で遊び、叔母から本物のボールを贈られて大喜びしたという。14歳でジェーリョの入団テストを受け、400人中20人の枠に入った。18歳でジェリェズニチャルのトップチームに加わり、サラエヴォ大学の理数学部数学科に入って数学や物理学、哲学を学んだ。成績は優秀で、学内で数学の指導役のような立場になり、後に妻となるアシマにも数学を教えた。大学3年の頃には試合の出場給が鉄道工だった父の3倍になり、数学かサッカーかで悩んだ。23歳でユーゴスラビア代表に選ばれ、1964年の東京オリンピックに向けて契約書に署名して正式なプロ選手となり、大学を中退した。医師にしたかった母は落胆したという。
東京五輪では日本との順位決定戦で2ゴールを挙げた。翌年アシマと結婚し、2男1女を授かった。1968年の欧州選手権では準決勝でイングランドに1対0で勝ったが、その試合で重傷を負って決勝に出られず、チームはイタリアに再試合の末に敗れた。大会のベストイレブンには選ばれている。1970年に28歳でフランスのストラスブールに移り、スダン、ヴァランシエンヌを経て再びストラスブールに戻り、1978年に引退した。選手生活は12年間で85得点を挙げ、イエローカードを受けたことは一度もなかった。
1978年に古巣ジェリェズニチャルでユース監督となり、翌年トップチームの監督に昇格して、1985年には欧州のカップ戦の準決勝へ進んだ。1986年にユーゴスラビア代表監督に就任し、1990年のワールドカップではストイコビッチらを率いてベスト8に入った。準々決勝のアルゼンチン戦は1人少ない中で120分を無失点で戦い、PK戦で敗れた。民族対立が代表に持ち込まれる中でも、特定の民族に偏らない選手起用を貫いたとされる。1992年3月、ボスニア・ヘルツェゴビナの連邦離脱を受けてユーゴスラビア軍がサラエヴォに侵攻した。仕事でベオグラードにいたオシムは戦火を免れたが、夫人と長女は市内に取り残された。5月21日、侵攻と分裂への抗議として代表とパルチザンの監督をともに辞任した。
その後はギリシャのパナシナイコスを経て、1993年にオーストリアのシュトゥルム・グラーツの監督となり、翌1994年に夫人と長女と再会した。クラブに規律と戦術を持ち込み、1997-98年シーズンにリーグ優勝を果たし、チャンピオンズリーグには3度出場した。2002年に辞任し、2003年にジェフユナイテッド市原の監督に就いた。2005年にはナビスコカップで優勝し、2006年に日本代表監督となった。2007年11月16日に脳梗塞で倒れ、一時は危篤となったが回復し、監督を退いて後任には岡田武史が就いた。2011年にはボスニア・ヘルツェゴビナのサッカー協会の正常化委員会の委員長を務め、資格停止の解除につなげた。2022年5月1日、シュトゥルム・グラーツが死去を発表した。
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