伝記
マデレーン・オルブライトは、1937年5月15日に生まれ、2022年3月23日に没したアメリカ合衆国の政治家である。ビル・クリントン政権で第64代国務長官を務め、アメリカ初の女性の国務長官となった。
プラハでマリー・ヤナ・コルベロヴァとして生まれた。父ヨゼフ・コルベルはチェコスロバキアの外交官で、1939年にナチスがチェコを併合すると、一家はロンドンに亡命した。亡命中の1941年にユダヤ教からカトリックに改宗しているが、亡命しなかった祖父母3人を含む親戚の多くがホロコーストで殺された。戦争が終わると一家はプラハに戻り、父は駐ユーゴスラビア大使となってベオグラードに移った。娘はスイスの学校で学び、フランス語を身につけて名を「マリー・ヤナ」から「マデレーン」に変えたという。1948年にチェコスロバキアで共産党が政権を握ると、共産主義に反対していた父は職を辞し、一家は同年にアメリカへ渡って、父はデンバー大学で国際関係論を教えた。のちに国務長官となるコンドリーザ・ライスは、この父の教え子である。
マデレーンは1955年にデンバー近郊の学校を卒業し、1959年にウェルズリー大学を卒業した。ジョンズ・ホプキンス大学を経てコロンビア大学で政治学の修士号と博士号を取得し、ロシア研究所にも在籍した。博士論文はプラハの春を扱ったとされる。1978年から1981年まで国家安全保障会議のスタッフを務め、その後はジョージタウン大学でソ連外交を教えた。教え子には、日本の河野太郎元外相、山本一太群馬県知事、中満泉国連事務次長らがいる。1992年の大統領選でクリントンが勝つと、その国家安全保障チームの編成を助けた。
1993年に国際連合大使に就任し、ブトロス・ブトロス=ガーリ事務総長と対立して、同氏が進めた国連改革を頓挫させ、最終的に辞任に追い込んだ。クリントン政権の2期目の発足とともに国務長官となり、2001年まで務めた。コソボ紛争では、空爆に消極的な西側の首脳をまとめてユーゴスラビア空爆を実現させたことが特筆され、ミロシェヴィッチ大統領の失脚やコソボの自治権獲得を含め、一定の成果を挙げたとも評される。一方、1998年8月のナイロビのアメリカ大使館爆破事件では、駐ケニア大使が警備強化を再三求めていたのに退けられていたと指摘される。2000年10月には現職の閣僚として初めて北朝鮮を訪れたが、融和的な姿勢がアメリカ国内で強い批判を浴びた。対ヨーロッパ以外では目立った成果が乏しいとされ、その理由はソ連・東欧の専門家であったことや、政権が内政を重視していたことに求められている。
1996年にはテレビ番組で、対イラク経済制裁により50万人の子どもが死んだと聞くが、犠牲を払う価値があるのかと問われ、「それだけの値打ちはある」と答えて批判を招き、国連の制裁担当の職員3人が辞任した。2016年の大統領選ではヒラリー・クリントンを支持し、2017年にはトランプ大統領の入国制限方針に抗議して、イスラム教徒として登録する覚悟があると述べた。2018年春には旭日大綬章を受章した。著書に回顧録『マダム・セクレタリー』(2003年)などがある。2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻の前日にもプーチン政権の姿勢を非難し、最晩年まで意見を表明し続けた。同年3月23日にがんのため死去し、4月27日にワシントン大聖堂で営まれた葬儀では、バイデン大統領が北大西洋条約機構の強化などの功績をたたえた。
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