HISTORICAL PERSON · 2022年没

海部俊樹

日本の政治家。衆議院議員を16期務め、文部大臣や大蔵大臣を経て、第76・77代の内閣総理大臣を務めた。のちに新進党の初代党首にもなった。

生涯
2022年没
死亡地
日本(東京都)
出生地
日本(名古屋市)
出典
世界地図
日本(東京都)

伝記

海部俊樹は、日本の政治家である。1931年(昭和6年)1月2日に名古屋市に生まれ、2022年(令和4年)1月9日に没した。衆議院議員を16期務め、文部大臣、自由民主党総裁、内閣総理大臣(第76・77代)、新進党初代党首などを歴任した。昭和生まれで初の首相である。

生家は祖父が明治時代に創業した写真館で、6人兄弟の長男だった。旧制愛知一中を受験して不合格となり、旧制東海中学に入学した。学徒動員で三菱重工業の工場に動員され、航空機のエンジン部品造りに明け暮れた。1945年に少年飛行兵学校に合格したが、入校の前に終戦を迎えた。のち中央大学専門部法科を卒業し、河野金昇の秘書になった。早稲田大学第二法学部に編入学して雄弁会に所属し、1956年に大学院を中退して秘書に専念した。1958年に河野が急死すると後継候補の一人に押し上げられたが、三木武夫の判断で河野の妻孝子が地盤を引き継ぎ、海部はその秘書となった。1960年に孝子に代わって旧愛知県第3区から立候補し、同年11月の総選挙で全国最年少で初当選した。

党内では三木派に属し、領袖の三木に目をかけられて「三木の秘蔵っ子」と呼ばれた。1964年には青年海外協力隊の構想をまとめ、アフリカを横断調査して創設に力を注いだ。1974年に三木内閣の内閣官房副長官となり、1975年のスト権スト問題では政府の窓口を担った。1976年12月、福田赳夫内閣で文部大臣として初入閣し、1985年の第2次中曽根内閣でも文部大臣を務めた。この時期の業績に共通一次試験の導入が挙げられる。三木派が河本派に移ってからは河本敏夫を支えるナンバー2だったが、資金面の貢献が少ないため「財布閉じ器」と渾名された。早稲田の先輩である竹下登との親交が深く、「現住所河本派・本籍竹下派」ともいわれた。

1989年7月、宇野宗佑首相が参議院選挙の敗北で辞意を表明した。有力議員の多くがリクルート事件に関わり、主要派閥はいずれも後継の総裁候補を出せる状態になかった。竹下が意中としたのは親しい後輩の海部で、クリーンな印象があり、中小派閥の出身で強い基盤を持たないため統制しやすい存在でもあった。海部は7月26日に竹下の事務所を訪ね、ここから首相への道が始まった。家族に出馬の決意を伝えた際には全員から反対され、帰りの車中でようやく妻が折れたという。8月2日に出馬を表明し、8月8日の総裁選で最大派閥の竹下派の支持を得て、林義郎、石原慎太郎を抑えて総裁に選ばれた。

首班指名では参議院が土井たか子を指名したが、衆議院の優越により海部が首相に就任した。組閣ではリクルート事件に関わったとされる政治家に代えて関係の薄い人物を登用し、1990年の総選挙では自民党を大勝に導いた。この年には即位の礼を仕切った。一方で党内基盤は弱く、石原信雄の回顧録には、重大な法案では金丸信、竹下登の判断を仰いでいたと記されている。1991年には湾岸戦争の戦費として多国籍軍に130億米ドルの資金提供を決めたが、人的な支援が戦争終結後の掃海艇の派遣にとどまったため、「小切手外交」と批判された。天安門事件後には先進国首脳として初めて中国を訪れ、円借款を再開した。1991年には来日したゴルバチョフ大統領と会談し、韓国の盧泰愚大統領とは在日韓国人の指紋押捺の廃止を約束して、のちに実施された。政権は政治改革関連法案の成立に意欲を燃やしたが、同法案は審議未了で廃案となった。

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