伝記
ムワイ・キバキは、ケニア共和国の第3代大統領(2002年から2013年)を務めた政治家である。1931年11月15日、中央州ニエリ県オタヤ地区のガトゥヤイニ村に、キクユ人の農民キバキ・ギシンジとテレジア・ワンジクの末の息子として生まれ、2022年4月21日に90歳で没した。洗礼名はエミリオ・スタンリーで、イタリアの宣教師にちなむが、公的な生涯を通じてムワイ・キバキの名で知られた。
村の学校やカリマの伝道学校などで学び、マング高校では1947年から1950年まで過ごして、中等教育修了の試験で最高の成績を収めた。高校の最終学年には軍人になることを考えたが、植民地の高官ウォルター・クーツが、キクユ、エンブ、メルの人々の軍への入隊を禁じたため、実現しなかった。ウガンダのカンパラにあるマケレレ大学で経済学、歴史学、政治学を学び、経済学で最優等の成績で卒業した。その後、奨学金を得てロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに留学し、公共財政で優秀な成績の学位を得た。1958年にマケレレ大学へ戻って経済学の助教として教え、1961年には牧師の娘で中等学校の校長だったルーシー・ムトニと結婚した。
1960年の初め、大学を離れてケニアに戻り、トマス・ジョセフ・ムボヤの求めでケニア・アフリカ民族同盟の事務官となり、独立憲法の起草に関わった。1963年にナイロビのドンホーム選挙区から国会議員に当選し、以後2013年まで議員を務めた。財務政務次官兼経済計画委員会議長を経て、商工大臣となり、1969年からは財務・経済計画大臣を務めた。1969年の選挙では対立候補とわずかな差で争ったため、1974年に郷里のオタヤ選挙区へ地盤を移した。同年、『タイム』誌が選んだ将来の指導者100人の一人に数えられた。1978年にダニエル・アラップ・モイがジョモ・ケニヤッタの後任の大統領になると、副大統領に選ばれた。1982年に内務大臣へ転任し、1988年に副大統領を外されて厚生大臣となった。
1991年12月、複数政党制を禁じた憲法第2A条の撤廃の数日後にケニア・アフリカ民族同盟を離れて民主党を結成した。1992年の大統領選挙は3位、1997年は2位だった。2002年12月27日の大統領選挙で、ケニヤッタ初代大統領の息子ウフル・ケニヤッタを破って当選し、独立以来初めてケニア・アフリカ民族同盟から政権を奪った。モイ政権の非民主的な状況は改善され、言論の自由や民主化が進んだとされる。2003年には初等教育を無償化した。一方で、連合を組んだ勢力への対応やキクユ人の友人を優遇する施策は、連合した政治家の多くから批判され、国民の反発も呼んだ。2005年には政府の提示した改正憲法案が否決された。
2007年12月27日の大統領選挙では、30日に選挙委員会がキバキの勝利を発表した。対立候補のライラ・オディンガは選挙不正を主張し、各地で暴動が起きた。大統領の出身部族であるキクユ族への攻撃があり、警察の発砲もあって双方に死者が出て、総死者は1,500人以上に上った。2008年2月末、コフィ・アナンの仲介でオディンガと和解して連立政権を組み、二期目を続けた。2010年には新憲法が採択された。2012年の大統領選挙には出馬せず、2013年4月9日に退任し、後任はウフル・ケニヤッタだった。退任後は世間の目を避けて静かに暮らし、2022年4月22日、ウフル・ケニヤッタ大統領がその死を公表して、ケニアへの貢献をたたえた。妻はルーシー、子に娘ジュディと息子3人がいる。
同じ年に亡くなった人物
- ケネス・ツァン (2022年没)
- デニス・ウォーターマン (俳優) (2022年没)
- コロンディ・マルギット (2022年没)
- ハビエル・マリアス (2022年没)
- ウラジーミル・マケイ (2022年没)
同じ地域に関係する人物
- ジグミ・ドルジ・ワンチュク (1972年没)
- アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタ (1898-1942) (1942年没)
- リチャード・リーキー (2022年没)
- グレイス・オゴト (2015年没)
- ダニエル・アラップ・モイ (2020年没)