伝記
ジャン=リュック・ゴダールは、フランスの映画監督である。編集技師、映画プロデューサー、映画批評家、撮影監督としても活動し、俳優として出演することもあった。はじめは映画批評家として出発し、トリュフォーやシャブロルと並ぶヌーヴェルヴァーグの旗手とみなされるようになった。独創的なカメラワークや大胆な編集技法によって映像表現に革命をもたらし、20世紀の最も重要な映画作家の一人と称される。
1930年12月3日、パリ7区に生まれた。父方の一族は平和主義の信念から、第一次世界大戦さなかの1916年にスイスのジュネーヴ近郊へ移り住んだ。母方はジュネーヴ在住のフランス系プロテスタントの著名な一族で、母方の祖父はBNPパリバの創業者の一人であった。少年期は1940年のパリ陥落までパリにいたが、同年にブルターニュの伯母のもとへ移り、そこからフランスを横切ってスイスへ向かった。ニヨンのコレージュを出たあとバカロレアのためにパリへ戻ったが、勉学に身が入らず落第し、スイスの学校に移っても二度目に落第した。1949年に三度目で合格し、その秋からパリ大学に通った。この間に父の病気が原因で両親は離婚している。同じ年にモーリス・シェレール、のちのエリック・ロメールが主催するシネクラブに参加し、リヴェットやトリュフォーらと出会った。
1951年にはアンドレ・バザン編集の『カイエ・デュ・シネマ』の創刊後に執筆に加わり、ロメールの習作短編にも主演した。1954年に習作短編『コンクリート作業』を脚本・監督し、1958年までにトリュフォーとの共同監督作『水の話』を含む数本の短編を撮った。
1960年3月、初の長編『勝手にしやがれ』が公開され、ジャン・ヴィゴ賞とベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞した。次の『小さな兵隊』に主演したアンナ・カリーナと1961年に結婚し、『女は女である』でもベルリンの銀熊賞を得た。1964年にはカリーナと独立プロダクション「アヌーシュカ・フィルム」を設立し、同年12月に離婚した。1965年に『アルファヴィル』でベルリン国際映画祭の金熊賞を受け、同年11月には『気狂いピエロ』が公開された。1967年には『中国女』に主演したアンヌ・ヴィアゼムスキーと結婚し(1979年離婚)、同年8月に商業映画との決別宣言を発表した。1968年5月には五月革命のさなかのカンヌ国際映画祭へトリュフォーらと乗りこみ、各賞の選出を中止に追い込んだ。同年、ジャン=ピエール・ゴランらとジガ・ヴェルトフ集団を結成し、匿名性のもとで集団製作を行った。
1971年にオートバイ事故に遭った。1972年に『万事快調』を撮った際、スチルカメラマンとして参加したアンヌ=マリー・ミエヴィルと出会い、製作会社「ソニマージュ」を設立して、ジガ・ヴェルトフ集団を解散した。ミエヴィルとはグルノーブルへ拠点を移し、ビデオ映画を数本手がけた。1979年にスイスのロールへ移り、『勝手に逃げろ/人生』で商業映画に復帰した。1983年には『カルメンという名の女』でヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞を獲得した。
2002年に高松宮殿下記念世界文化賞を受け、2006年にはパリのポンピドゥー・センターで初の個展が開かれた。2010年にアカデミー名誉賞を受賞し、2018年のカンヌ国際映画祭では「スペシャル・パルム・ドール」を受けた。2022年9月13日、居住していたスイスで死去した。判断能力があり利己的な動機を持たない人に合法化されている、医師による自殺幇助を選んだ死とされる。
同じ年に亡くなった人物
- ユースフ・アル=カラダーウィー (2022年没)
- ヘルマン・ニッチュ (2022年没)
- ポーラ・レゴ (2022年没)
- 吉田喜重 (2022年没)
- ジョディ・ルコキ (2022年没)
同じ地域に関係する人物
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- ピーター・ユスティノフ (2004年没)
- Roger Mathis (2015年没)
- ニコライ・ゲッダ (2017年没)
- カロル・シマノフスキ (1937年没)