伝記
ミハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフは、ソビエト連邦最後の最高指導者となった政治家である。1931年3月2日に生まれ、2022年8月30日に没した。1985年から1991年までソ連共産党書記長を務め、1990年にはソ連大統領となった。ペレストロイカやグラスノスチ、中距離核戦力全廃条約の締結、冷戦終結などの功績により、1990年にノーベル平和賞を受けた。
ロシア共和国スタヴロポリ地方のプリヴォリノエ村で、コルホーズで働く貧しい農民の家に生まれた。幼いころにスターリンの大粛清を目にし、祖父アンドレイはサボタージュの嫌疑で投獄された。1941年に独ソ戦が始まると、農業技術者だった父が従軍した。1944年に戦死の通知が届いて一家は悲嘆にくれたが、3日後に本人から無事を知らせる手紙が届いたという。戦後は14歳でコンバインの運転手として働き、成績も優秀で銀メダルを授与された。1950年、19歳でスタヴロポリ市当局の推薦を受けてモスクワ大学法学部に入学し、1952年に共産党へ入党した。在学中に哲学科のライーサ・チタレンコと出会い、1953年に結婚した。
卒業後は故郷に戻ってコムソモールの活動に就き、1955年にスタヴロポリ市のコムソモール第一書記となった。その後は党の階段を登り、1970年にスタヴロポリ地方党委員会第一書記に就任、1971年には40歳で党中央委員に選ばれた。1978年11月に党中央委員会の農業担当書記に抜擢されてモスクワに移り、1979年に政治局員候補、1980年10月には史上最年少の政治局員となった。ブレジネフの死後に書記長となったアンドロポフは同郷の先輩でもあり、ゴルバチョフを重用して経験を積ませた。1983年にはカナダを訪れてのちの側近ヤコブレフと知り合い、イギリスではサッチャー首相から「彼となら一緒に仕事ができます」と評された。1984年にアンドロポフが死去すると、保守派の反対もあって書記長にはチェルネンコが就き、ゴルバチョフは第二書記に指名された。
1985年3月、チェルネンコの死を受けて54歳で書記長に選出された。外相グロムイコの推薦を得たためで、グロムイコは推薦演説で「この人物の笑顔は素晴らしいが、鉄の歯を持っている」と語った。就任後は人事の刷新を進め、外相にシェワルナゼを起用して内外を驚かせた。同年11月にはジュネーヴでレーガン米大統領と会談し、核軍縮交渉の加速などを盛り込んだ共同声明を出した。1986年4月に「建て直し」を意味するペレストロイカを提唱した。
1986年のチェルノブイリ原発事故の後、大幅な改革が必要だと考えるようになった。アフガニスタンから撤退し、レーガンやブッシュ大統領との首脳会談で核兵器の制限と冷戦の終結に取り組んだ。国内では言論と報道の自由を認めるグラスノスチを進め、人民代議員会議を設けたが、これは結果として共産党の一党独裁に終止符を打つこととなった。1989年から1990年に東欧諸国が社会主義体制を放棄した際には、軍事介入を断念した。一方、国内の民族主義の高まりを警戒して武力衝突を招き、不信を募らせた幹部の一部は保守化し、1991年にクーデターを起こして失敗した。ゴルバチョフの望んだ連邦の維持はかなわずソ連は解体され、大統領を辞任した。退任後は大統領選に出馬したが、支持は集まらなかった。西側では人気が高い一方、旧ソ連圏では改革が超大国の崩壊を招いたとして評価が分かれている。2022年8月30日に死去した。
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