HISTORICAL PERSON · 2022年没

ダヴィド・サッソリ

イタリアの政治家、ジャーナリスト。2009年に欧州議会議員となり、2019年7月から亡くなるまで欧州議会議長を務めた。

生涯
2022年没
死亡地
イタリア共和国(ポルデノーネ県 / アヴィアーノ)
出生地
イタリア共和国(フィレンツェ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ポルデノーネ県)

伝記

ダヴィド・マリア・サッソリは、イタリアの政治家でありジャーナリストである。1956年5月30日にフィレンツェで生まれ、2022年1月11日に没した。2009年に欧州議会議員に初当選し、2019年7月から死去するまで欧州議会議長を務めた。所属は欧州社会党・民主党であった。

フィレンツェの生まれで、両親はフィレンツェとプラートの出身のトスカーナ人であった。「ダヴィド・マリア」という名は、父がイタリアの司祭で神学者でもあった人物にちなんで付けたという。大学では政治学を学んだ。ジャーナリストとしては、地元の小さな新聞や通信社で活動したのち、ローマに移って日刊紙「イル・テンポ」などで働いた。1985年には、パリのポンピドゥー・センターで、逃亡中の左翼活動家オレステ・スカルツォーネにインタビューして注目された。同年、「イル・ジョルノ」紙のローマ支局に移り、約7年にわたって政治や事件を追った。この間には1989年11月9日のベルリンの壁崩壊に立ち会い、壁を実際に壊した大勢のひとりだったともいう。1986年7月3日にはプロのジャーナリストとして登録された。

1992年に国営テレビ局TG3の記者となり、ミケーレ・サントロとともに複数の番組を製作した。1996年には番組「クローナカ・イン・ディレッタ」の司会を担当した。数年後にTG1のアンカーマンとなり、イタリアで最も有名で人気のあるジャーナリストのひとりになった。2007年にジャンニ・リオッタがTG1のディレクターに就くと、その副ディレクターを務めた。表現の自由を広めるために、ジャーナリストや作家、法律家らが2001年に結成した団体「アルティーコロ21」にも加わっていた。

2009年にジャーナリストの職を離れて政治家に転じ、中道左派の民主党に入党した。中央イタリア選挙区から欧州議会選挙に立候補し、6月7日に同選挙区の候補者で最多となる41万2502票を得て当選した。2012年10月9日にはローマ市長選挙に向けた中道左派の統一候補予備選への立候補を表明したが、イグナツィオ・マリーノが得票率55%で選ばれ、サッソリは2位に終わった。それでも元通信相パオロ・ジェンティローニの得票は上回った。2014年の欧州議会選挙では20万6170票で再選され、同年7月1日には欧州議会の副議長に選ばれた。議員連盟では、極度の貧困と人権に関するものに加わっていた。

2019年の選挙では12万8533票で再選された。7月2日に社会民主進歩同盟から議長候補に推され、翌3日に345票を得て、アントニオ・タイヤーニの後任の議長に選出された。この職にイタリア人が就くのは7人目であった。受諾演説では、欧州統合を平和と民主主義のための構想として語り、欧州議会がより重要な役割を果たしてこそ欧州はさらに強くなれると述べた。最初の公務としては、2016年のブリュッセル連続爆破テロ事件の現場のひとつを訪れ、すべてのテロ犠牲者を追悼した。2019年12月には、収監されていたカタルーニャの元副首長オリオル・ジュンケラスの解放をスペイン当局に求めた。

任期満了を目前にした2022年1月11日、イタリアの病院で死去した。前日には報道官が、免疫系の機能不全による深刻な合併症のため前年12月26日から入院していると発表していた。妻アレッサンドラ・ヴィットリーニとの間にジュリオとリヴィアの2子がいた。サッカークラブのACFフィオレンティーナのファンでもあった。

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