伝記
ペレことエドソン・アランチス・ド・ナシメントは、1940年10月23日にブラジルのミナスジェライス州で生まれたサッカー選手である。生まれた時期に町へ電気が敷設されたことから、発明王エジソンにちなんでエドソンと名づけられた。父ジョアン・ラモス・ド・ナシメントはセンターフォワードで、ヘディングの名手として知られ、1試合にヘディングだけで5得点を挙げたこともあった。しかし膝を痛めて退団し、小さなクラブで低い給与のままプレーしたという。1944年に父がバウルのクラブへ移ると、一家もバウルに移った。その後、父が膝の故障で引退して収入が途絶えると、ペレは靴磨きで家計を助けた。母は厳格で、不安定なサッカー選手ではなく、高い教育を受けて堅い職業に就くよう息子を躾けていた。愛称のペレは、父のクラブにいたGKビレのファンだった幼いペレが、ミナス訛りもあってうまく発音できなかったことから生まれ、同級生にもそう呼ばれるようになったという。本人は少年のころ、この呼び名を好まなかった。
9歳だった1950年、ブラジルで開かれたワールドカップの決勝リーグ最終戦でウルグアイに1対2で敗れた。家中が深い悲しみに包まれるのを見たペレは、のちにウルグアイへのあだ討ちを果たそうと誓ったという。10代になると複数のクラブを掛け持ちしてプレーしたが、学業はおろそかになり、母の意向に反して落第生になった。1954年、地元に創設された下部組織に入り、父の旧友で元ブラジル代表のヴァウデマールの指導を受けた。ヴァウデマールは体のあらゆる部位を使ったボールコントロールや、試合の流れを読むこと、ボールを持たないときの動きを厳しく教えた。15歳のとき、彼は両親を説得してサントスFCへの入団を取り持った。
1956年にサントスに入団したが、体重が60キロに満たない華奢な体つきだったため、すぐにはトップチームでプレーできず、リザーブチームやユースチームで鍛えられた。同年9月7日、コリンチャンスとの親善試合でデビューして初得点を挙げた。1958年にはサンパウロ州選手権で38試合58得点を記録して得点王となり、優勝に貢献した。同じ年にはブラジル代表としてワールドカップに出場し、初優勝に貢献した。兵役の義務も負ったため、ある年にはサントス、代表、州選抜、沿岸防衛部隊、軍選抜の5チームで計103試合に出場した。1961年3月5日にはマラカナンで、自陣近くから6人を抜いて決めた得点が「マラカナンの歴史上最も美しいゴール」と賞賛され、記念のプレートが掲げられた。
欧州の有力クラブも関心を示し、レアル・マドリードの会長が直接オファーしたほか、インテルやユヴェントスからも移籍の申し入れがあった。ブラジル政府は「ペレは輸出対象外の国宝である」と宣言して移籍を阻止した。1962年にはコパ・リベルタドーレスで優勝し、ブラジル勢として初のタイトルを得た。インターコンチネンタルカップではエウゼビオを擁するベンフィカを下し、リスボンでの第2戦で3得点1アシストを記録した。この試合を、自身のキャリアで最高の試合と語っている。翌1963年も連覇し、ACミランを破って2年連続でクラブ世界一となった。
15歳でデビューしてから1977年に引退するまでの22年間で、通算1363試合に出場して1281得点を記録した。ワールドカップでは3度優勝し、これは2022年時点で唯一の記録である。「サッカーの王様」と呼ばれ、史上最高の選手の一人とも評された。2022年12月29日に亡くなった。
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