伝記
ビル・ラッセル、本名ウィリアム・フェルトン・ラッセルは、1934年2月12日にアメリカ合衆国ルイジアナ州モンローで生まれ、2022年7月31日に亡くなった元プロバスケットボール選手である。NBAのボストン・セルティックスを11回の優勝に導き、ディフェンスの面で競技に革新をもたらしたとされる。また、人種差別に立ち向かった公民権運動家としても知られる。
生まれたウェストモンローは厳格な人種隔離政策が敷かれた土地だった。8歳のころ、戦時中に職を求めて多くの黒人がオークランドへ移ったのに倣い、一家も引っ越したが、計画はうまくいかず貧困に陥った。ラッセルは幼少期の大半を低所得者向けの公営住宅で過ごし、12歳のときに母を亡くした。父チャーリーは職を転々としながら一家を支え、少年のヒーローになった。
少年時代は有望な選手には見えず、試合への理解が足りないため中学ではチームから追い出された。マククライモンズ高校2年のときも同じ目に遭いかけたが、コーチのジョージ・パウルスが才能を見出し、基礎から取り組むよう励ました。白人から差別的な言葉しか聞いたことがなかったラッセルは、この白人コーチの教えを喜んで受け入れたという。それでも高校では花開かず、無名のまま卒業した。そこに目をとめたのが、サンフランシスコ大学のハル・デ・ジュリオだった。得点力は乏しいとみたが、勝負どころでの力を見抜いて奨学金を申し出た。
大学ではコーチのフィル・ウールパートに先発センターに抜擢され、守備を軸にしたバスケットのなかで才能を伸ばした。相手のセンターをつねにはマークせず、前に出て味方を助けるという当時は珍しい戦い方で、長身に加えガードほどの脚力を備えた彼は、ブロックショットを武器にした。チームにはのちに生涯の盟友となるK.C.ジョーンズらがおり、1955年から1956年にかけて55連勝を記録し、全米大学トーナメントを連覇した。1954年の大会では、黒人選手だけが宿泊を断られたため、全員がホテルをやめて閉校した大学の寄宿舎に泊まった。この出来事がチームの結束を強めたとされる。3年間の成績は平均20.7得点、20.3リバウンドだった。陸上選手としても活躍し、走高跳では206センチを跳んだ。
ハーレム・グローブトロッターズの誘いを断り、NBAドラフトへの参加を決めた。セルティックスの監督レッド・アワーバックは、ラッセルのタフネスとリバウンド力をチームに欠けていた最後のピースと考えた。ただ、順番が回ってきても残っている見込みは薄かった。そこでアワーバックは、2位指名権を持つセントルイス・ホークスにラッセルを指名させ、センターのエド・マコーレーらとの交換でラッセルを獲得する段取りを整えた。1位指名のロイヤルズはラッセルを選ばず、計画どおりに運んだ。セルティックスは同じ年に、地域指名でトム・ヘインソーン、2巡目でK.C.ジョーンズも指名した。
1956年にはメルボルンオリンピックで金メダルを獲得した。NBAでの13年間にファイナルを11回制し、うち8連覇を含む。優勝を逃したのは2回だけだった。オールスターに12回出場し、シーズンMVPに5回選ばれた。現役最後の3年間は選手兼コーチを務め、アメリカ四大メジャースポーツ初の黒人ヘッドコーチとなった。引退後はシアトル・スーパーソニックスとサクラメント・キングスの指揮もとった。1975年にバスケットボール殿堂入りし、2009年にはファイナルMVP賞が彼の名を冠して改称された。背番号6は2022年、NBAの全チームで永久欠番となった。
同じ年に亡くなった人物
- スタニスラフ・シュシケビッチ (2022年没)
- リボール・ペシェク (2022年没)
- ポール・ファーマー (2022年没)
- ジェームズ・マクディビット (2022年没)
- ジェイソン・デビッド・フランク (2022年没)
同じ地域に関係する人物
- George Hunt (1999年没)
- マイクル・ディブディン (2007年没)
- Henry Proctor (2005年没)
- ルシアン・プルヴァマチャ (2009年没)
- チャールズ・ドボラク (1969年没)