伝記
ディートリヒ・ブクステフーデは、1637年頃に生まれ、1707年5月9日に没した17世紀の北ドイツ、バルト海沿岸地域を代表する作曲家でありオルガニストである。声楽作品ではバロック期ドイツの教会カンタータの形成に貢献し、オルガン音楽ではスウェーリンクに端を発する北ドイツ・オルガン楽派の最大の巨匠とされる。即興的で主情的な作風は、幻想様式の典型と見なされている。
一族の名は、エルベ河畔の都市ブクステフーデに由来する。祖先は16世紀初頭にホルシュタイン公国のオルデスローに移り、祖父は1565年から1590年まで同地の市長を務めた。父ヨハネスはオルガニストで、1632年から1633年頃にスコーネ地方のヘルシンボリに移り、1641年にはズント海峡を渡ってデンマークのヘルセンゲアの聖オーラウス教会のオルガニストとなった。ブクステフーデの出生に関する記録はほとんど残っておらず、死亡記事が「デンマークを祖国とし、およそ70年の生涯を終えた」と伝えるのみで、1637年頃にヘルシンボリで生まれたと考えられている。幼年期の教育は推測の域を出ないが、父から音楽の手解きを受け、ヘルセンゲアのラテン語学校に通ったと思われる。デンマーク語も使ったことが、当地時代の3通の手紙から分かる。1658年にヘルシンボリの聖マリア教会のオルガニストに就いたが、デンマークとスウェーデンの争いで、同年のロスキレ条約によりスコーネ地方は割譲され、町は疲弊した。1660年にはヘルセンゲアの聖マリア教会のオルガニストに就任した。
1667年11月にリューベックのオルガニスト、フランツ・トゥンダーが亡くなり、1668年4月11日にその後任に選ばれた。聖母マリア教会の大オルガンは3段鍵盤、54ストップを備える銘器で、同教会のオルガニストは北ドイツの音楽家にとって最も重要な地位のひとつだった。同年8月にトゥンダーの娘アンナ・マルガレーテと結婚した。教会の書記・財務管理を務めるヴェルクマイスターも兼ね、帳簿の作成などを忠実にこなして、市の有力者との関係を築いた。ハンザ同盟の衰退でリューベックの経済は不振となり、俸給は生涯、トゥンダー時代のまま据え置かれ、オルガンの修理要求も十分にはかなえられなかった。
職務としての演奏は礼拝の先導が中心で、手腕が発揮されたのは、トゥンダー時代に始まったアーベントムジーク(夕べの音楽)である。彼は合唱や管弦楽を含む大編成の作品を上演するようにし、入場無料ということもあって高い人気を博して、名声はリューベックを超えて広まった。約40年にわたり聖母マリア教会で働き、確実な旅行の記録は1687年のハンブルクだけである。それでもラインケンやタイレ、パッヘルベルらと交流があり、パッヘルベルの『アポロンのヘクサコルド』は彼に献呈された。弟子には後にフーズムの市教会オルガニストとなるニコラウス・ブルーンスがいる。晩年は後継者探しに苦心した。1703年に招かれたマッテゾンとヘンデルは、娘との結婚が条件と知って去り、1705年に訪ねたバッハも、その演奏に魅了されて無断で休暇を延ばしたものの、後任には選ばなかった。結局は弟子のシーファーデッカーが後任に推された。1707年5月9日に没し、同月16日に聖母マリア教会で、父や早逝した4人の娘の傍らに埋葬された。現存する声楽曲は約120曲ある。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハン・パトクル (1707年没)
- Maria Clara Eimmart (1707年)
- ジャン・マビヨン (1707年没)
- ヨハン・クリストフ・デンナー (1707年没)
- ヨハン・エルンスト3世 (ザクセン=ヴァイマル公) (1707年没)
同じ地域に関係する人物
- ユレック・ベッカー (1997年没)
- ハンス (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク公) (1622年没)
- Arnost Kreuz (1974年没)
- フリードリヒ (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク公) (1885年没)
- ハンス・シュミット=イッセルシュテット (1973年没)