HISTORICAL PERSON · 466年没

シェヌーテ

エジプト白修道院の院長。修道士を30人から2200人超に増やす発展を導き、エフェソス公会議ではキュリロスに同行してネストリオスの異端断罪を支援した。

生涯
466年没
死亡地
エジプト・アラブ共和国(ソハーグ県 / ソハーグ)
出生地
古代ローマ(アエギュプトゥス)
出典
世界地図
エジプト・アラブ共和国(ソハーグ県)

伝記

シェヌーテは、エジプトの白修道院の修道院長で、東方諸教会で聖人とされ、コプト正教会では最も有名な聖人の一人である。大シェヌーテ、掌院聖シェヌーテとも呼ばれ、アトリペのシェヌーテの名でも知られる。生没年は347年から465年、または348年から466年とされる。アラビア語の発音にならってシェヌーダとも呼ばれる。

348年に上エジプトの村シェナロレットで、敬虔なキリスト教徒の両親のもとに生まれた。叔父は、今日白修道院として知られる修道院の創立者で、やはり聖人とされるピゴルであった。若いころは父の羊の群れの世話を手伝っていた。叔父の修道院へ向かう途中、ピゴルが幻を見た結果、彼を引き取り、のちに修道士にしたという。385年ごろ、仲間の修道士たちに選ばれて叔父の後を継ぎ、修道院長となった。このとき修道院には年老いた修道士が30人いるだけだったが、466年の死の際には2,200人の修道士と1,800人の修道女を擁し、面積は元の3,000倍を超えていたという。

上エジプトでの人気と正統主義への情熱により、431年のエフェソス公会議にはアレクサンドリア教会の代表者としてキュリロスに同伴した。会議では、コンスタンティノープル司教ネストリオスを打ち負かす必要があったキュリロスを道徳面で支えた。その結果としてネストリオスがシェヌーテの活動地域に近いアフミームへ追放されたことは、シェヌーテが公会議の参加者に印象を与えた証拠とされる。

叔父から受け継いだのは質素で厳格なパコミオス方式の修道院であったが、それでは門弟が少なく、拡大よりも縮小を促したと考えられる。そこでシェヌーテは、より厳格でなく、民衆の生活の背景に適した包括的な方式を実行した。新参者は誓約文を暗唱して固守し、違反者は修道院から完全に追放された。小作人であった修道士にとって、それは死刑に近いものと考えられた。また新参者は、修道士として聖別されるにふさわしいと認められるまで修道院の外で暮らさねばならなかった。修道士たちは祈りや礼拝のほか、綿の紡ぎや仕立て、亜麻の栽培、革なめし、靴作り、書字と本作り、大工仕事、金属・陶器作りなどに従事し、可能な限り以前の職業を生かして働いた。こうした活動のため、修道院は約52平方キロメートルに及ぶ広大な複合体となった。識字の必要も認め、僧や尼僧に読書を課し、写本づくりを多くの者に奨励した。

弟子のベーサが著したとされる『聖シェヌーテ伝』は、貧しいエジプト人小作人を助けた出来事を伝える。異教徒の地主から小作人を守り、プソイの捕虜の解放を求めて命を危険にさらし、ビザンチン皇帝テオドシウス1世にさえ農民のために訴えたという。著述でも知られ、コプト語とギリシャ語に通じ、聖書を精度高く引用した。著作は道徳的な説教、異教に対する説教、異端に対する説教、訪問した治安判事との面談に基づく説教に分けられ、オリゲネス派とグノーシス派に対する反駁が最長である。ほかにメレティオス派、マニ教徒、ネストリオス派にも反論した。ギリシャの思想や神学にも通じており、彼が熱狂的にギリシャ文化を拒んだエジプト人だったという見方は神話にすぎないとされる。466年7月14日、短い病ののち、修道士たちの目の前で世を去った。その名を冠した修道院は、ソハーグ近郊の白修道院のほか、ミラノ、ロチェスター、オーストラリアにもある。

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