伝記
アブンディウスは、北イタリアのコモの司教で、カトリック教会で聖人として崇敬される人物である。アブンディウスのほか、アボンディウス、アブンディアス、イタリア語でアッボンディオなどとも呼ばれる。5世紀初めに生まれ、468年か469年に没したとされる。没年を489年とする説もあるが、確かな根拠はないという。
生まれはテッサロニキと伝えられる。ただし、これを裏づける文書はない。ラテン語系の名前であっても、東ローマ世界のローマ人にこうした名はわりあい広まっていたため、この伝承は疑われていない。ギリシャ語には非常によく通じていたと考えられる。伝承によれば、はじめはコモの第3代司教アマンティウスの補佐役を務めた。アマンティウスは市と広大な司教区でキリスト教の基盤を固め、聖ペトロ・聖パウロの大聖堂を建てて司教座を置いた人物である。アマンティウスはアブンディウスを司祭に叙階し、死の前から後継者に指名して、440年11月17日に司教に聖別したという。アマンティウスの死は450年ごろで、アブンディウスは、フェリックス、プロビヌス、アマンティウスに続くコモの第4代司教となった。ただし、448年のコンスタンティノープルの会議に出席したという記述とともに、448年ごろに第4代司教になったとする記述もある。
当時、東ローマ帝国ではネストリウス派の教えが広まっていた。431年のエフェソス公会議で異端とされたものの、コンスタンティノープルの大修道院長エウティケスをめぐって問題が再燃した。エウティケスは、受肉後のキリストには神性のみが残るとする単性説を唱えた。449年の第2回エフェソス公会議は、エウティケスの支持者による恐怖の雰囲気に支配され、エウティケスは赦免され、コンスタンティノープル司教フラウィアノスと教皇レオ1世は破門された。教皇は会議を無効と宣言したが、皇帝テオドシウス2世はこれを有効とした。
テオドシウスの死後、マルキアヌスが帝位につくと状況は変わった。450年、教皇レオはアブンディウスを団長とする新たな使節を送った。アブンディウスは、フラウィアノスの後任のアナトリオスに、先に送られていた教皇の書簡『フラウィアノス宛書簡』を受け入れさせることに成功した。西帝ウァレンティニアヌス3世の働きかけも成功の一因とされる。451年のカルケドン公会議では、エウティケスの説が異端とされ、アブンディウスは反エウティケス派として積極的に活動し、教皇レオの代表を務めた。西方に戻ると、ローマで教皇に歓迎された。452年にはミラノの地方会議に出席し、教皇の名のもとにミラノ司教エウセビオスにカルケドン公会議への同意を表明させた。
その後は自らの司教区に力を注ぎ、まだ異教徒の多かったアルプスへ通じる広い谷々に信仰を広めた。外交官であり神学者であった人物は、説教者に戻ったのである。伝承では、復活祭の日の祝いの説教のあとに世を去ったという。アブンディウスは中世初期からコモの町と司教区の守護聖人として崇敬され、その崇敬は819年の記録に残る。ルガノ司教区の副守護聖人でもあり、さまざまな奇跡が帰せられた。教会は聖人として祝い、コモ司教区では8月31日を祝日としている。賛美歌「テ・デウム」の作者の一人とされることもある。1095年に教皇ウルバヌス2世が奉献したコモのロマネスク様式のサンタボンディオ教会は彼にささげられ、遺骨は主祭壇の下に安置されている。
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