伝記
アラン・アーキンは、1934年3月26日にニューヨーク市ブルックリンで生まれ、2023年6月29日に亡くなったアメリカの俳優である。本名はアラン・ウルフ・アーキンで、2人の息子アダムとマシューも俳優である。父デヴィッドは教師、画家、作家、作詞家で、母ベアトリスは教師だった。祖父母はウクライナ、ロシア、ドイツからのユダヤ系移民で、一家は宗教を重んじなかったという。クラウンハイツに住んだ後、アランが11歳のときにロサンゼルスへ移った。映画界の8か月に及ぶストライキで、舞台装置家だった父は職を失った。1950年代の赤狩りの時代には、両親が共産主義者だと疑われ、父は思想について答えることを拒んで解雇された。父は解雇を争ったが、潔白が認められたのは死後のことだった。
アーキンは10歳から演技のレッスンを受け、奨学金を得て複数の演劇学校に通った。その中にはスタニスラフスキーの弟子ベンジャミン・ゼマックが開いた学校もあり、心理的な演技法を学んだ。1951年から1953年までロサンゼルス州立大学に通い、ベニントン大学でも学んだ。1950年代には、フォークグループ「ザ・タリアーズ」で歌とギターを担当し、1956年から翌年にかけて「シンディ、オー・シンディ」や「デイ・オー」がヒットした。のちにフォークグループ「ベイビー・シッターズ」にも加わり、1958年から1968年までミュージシャンとして活動したとされる。1960年代には喜劇集団セカンド・シティの初期のメンバーとなり、1961年にはブロードウェイで舞台に立った。映画では1957年の音楽映画で小さな役を演じたのが最初とされる。
1963年、ジョゼフ・スタイン作の喜劇『エンター・ラフィング』でブロードウェイの主演を務め、トニー賞の助演男優賞とシアター・ワールド賞を受けた。翌1964年にはマイク・ニコルズ演出の『ラヴ』に出演した。1966年には『アメリカ上陸作戦』で本格的に映画に出演し、アカデミー賞主演男優賞にノミネートされ、ゴールデングローブ賞の主演男優賞も受けて、一気にハリウッドで成功を収めた。この演技は、ニューヨーク・タイムズ紙の評者から初の長編映画出演としてとりわけ見事だと称えられた。1967年にはオードリー・ヘプバーン主演の『暗くなるまで待って』に出演した。1968年には『ピンクの豹』シリーズの第3作『クルーゾー警部』でクルーゾーを演じ、同年の『愛すれど心さびしく』でも再びアカデミー賞主演男優賞にノミネートされた。
1970年代は監督にも進出し、1971年のニール・サイモン作『サンシャイン・ボーイズ』の演出ではトニー賞にノミネートされた。『キャッチ22』などの喜劇的な作品から、テレビドラマ『サイマス・キュデルカの亡命』のようなシリアスな演技まで幅広くこなした。ピーター・フォークとは『あきれたあきれた大作戦』と『ビッグ・トラブル』で息の合った共演を見せた。近年は作品を引き締める重要な役で登場することが多く、2006年の『リトル・ミス・サンシャイン』で、下品な口をきく祖父を演じて第79回アカデミー賞助演男優賞と英国アカデミー賞助演男優賞を受けた。2012年の『アルゴ』でも再びアカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。2018年から2019年にはネットフリックスの喜劇シリーズ『コミンスキー・メソッド』に主演した。子供向けの童話作家としての顔も持つ。2023年6月29日、カリフォルニア州の自宅で89歳で亡くなった。
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