伝記
マルッティ・アハティサーリは、1937年6月23日に生まれ、2023年10月16日にヘルシンキで亡くなったフィンランドの政治家、外交官である。第10代大統領として1994年3月1日から2000年3月1日まで在任し、退任後は国際紛争の解決に尽力して、2008年にノーベル平和賞を受けた。フルネームはマルッティ・オイヴァ・カレヴィ・アハティサーリという。
生まれたのは現在はロシア領のヴィボルグ、当時のフィンランド領ビイプリである。父オイヴァは、祖父がノルウェー南部からフィンランドのコトカへ移住した家の出で、1929年にフィンランド国籍を取り、1935年に姓をアドルフセンから改めた人だった。生まれたとき、父はビイプリで補給部隊の下士官として働いていた。継続戦争で父が前線に出ると、母ティイネは1940年に息子を連れてクオピオへ移り、アハティサーリは子ども時代の大半をそこで過ごした。1952年に一家はオウルへ移り、1956年に高校を卒業した。兵役を終えた後はオウルの教員養成大学で学び、1959年に小学校教員の資格を得た。1960年の夏には、スウェーデン国際開発庁が運営するパキスタンのカラチの体育寄宿学校で校長を務める契約を結んだ。
1963年にフィンランドへ戻ってヘルシンキ経済大学で学び始め、国際学生クラブや学生国際援助の事務局長となって、ナミビア出身のニッキー・イヤンボと親交を結んだ。1965年に外務省に入り、ヤーコ・イロニエミとともに国際開発援助室を立ち上げた。第三世界との国際協力でフィンランドの存在がほとんどなかった時代の、先駆的な部署だったという。1973年にタンザニア、ザンビア、ソマリア、モザンビーク駐在の大使となり、1977年までその職にあった。ダルエスサラームからナミビアの独立過程を見守り、南西アフリカ人民機構と接触を保った。1977年に国連に呼ばれてナミビア担当の国連弁務官となり、1981年まで務めた。
1989年4月、国連ナミビア独立支援グループを率いる国連事務総長特別代表としてナミビアに派遣された。人民機構の部隊がアンゴラから越境すると、南アフリカ側の行政長官が自国軍の展開に同意を求め、アハティサーリは英国のサッチャー首相の助言を受けて承認した。激しい戦闘となり、少なくとも375人の人民機構側の戦闘員が死亡した。この判断に対しては、南アフリカ側に譲歩しすぎたという批判が出た。一方、この判断をためらったことが原因かは定かではないが、南アフリカの民間協力局に狙われたとも言われ、2000年9月の真実和解委員会の聴聞では、命を奪うのではなく痛めつけるよう命じられた工作員がいたとされる。
1993年にフィンランド社会民主党の党首となり、1994年の大統領選でスウェーデン人民党のエリサベト・レーンを破って当選した。1期6年を務めて2000年に退任した。その後は国連特使としてコソボの地位問題や、インドネシアのアチェ和平合意など、世界各地の紛争解決に取り組んだ。アチェ和平合意は、彼の仲介で締結されたインドネシアと自由アチェ運動の合意である。退任後に危機管理イニシアティブというNGOも設立した。2008年10月には、数十年にわたり複数の大陸で国際紛争の解決に尽くしたとして、ノーベル平和賞を受賞した。ノーベル賞委員会は、ナミビア、アチェ、コソボとセルビア、イラクなどでの紛争解決での顕著な役割を挙げている。同年、法政大学から名誉博士の学位も授与された。
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