伝記
シネイド・オコナーは、1966年12月8日にダブリンで生まれ、2023年7月26日にロンドンで亡くなったアイルランドのシンガーソングライターである。本名はシネイド・マリー・バーナデット・オコナーで、2018年にイスラム教へ改宗してからはシュハダ・サダカットと名乗った。仮名表記には揺れがあり、デビュー当初しばらくはシンニードやシニードとも書かれた。
生まれたのは5人きょうだいの3番目で、両親は若くして結婚し、不仲だった。8歳のときに両親は離婚し、年長の3人は母のもとで暮らしたが、頻繁に身体的な虐待を受けたとされる。1979年に母のもとを離れて父と新しい妻の家に移り、学校での素行の悪さから15歳で矯正施設に入れられた。そこで歌を耳にした人物の縁で、ある楽団と曲を録音している。1983年に父に送られた学校では教師の助けを得て4曲入りのデモを作り、1984年の夏には自らのバンドを結成した。1985年2月10日に母が自動車事故で亡くなると、関係が緊張していたにもかかわらず深く打ちのめされたという。まもなくバンドを離れてロンドンへ移り、レコード会社と契約し、経験豊富なマネージャーを得た。最初の仕事は、U2のギタリストのジ・エッジと共作した映画の挿入曲で歌を担当することだった。その後、アイルランド共和軍暫定派への共感を語って、のちに撤回するなど、発言が物議を醸すこともあった。
1987年のデビュー・アルバム『ザ・ライオン・アンド・ザ・コブラ』は穏やかさと攻撃性が交錯する作風で、世界的なチャート入りを果たした。1990年の第2作『蒼い囁き』からカットされたプリンス作のカヴァー「ナッシング・コンペアーズ・トゥー・ユー」は世界的な大ヒットとなり、ビルボード・ミュージック・アワードで1990年の世界第1位のシングルに選ばれた。アルバムは英米で1位に達し、全世界で700万枚以上を売り上げた。一方で言動は過激で、アメリカの公演前の国歌を拒んで騒がれ、1992年10月には『サタデー・ナイト・ライブ』の生放送でローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の写真を破った。教会関係者による性的虐待事件への抗議だったとされ、大きな物議を醸した。直後のボブ・ディランのトリビュート・コンサートでは大ブーイングを浴び、ボブ・マーリーの「ウォー」を歌った。
その後は過激さが薄れ、1999年には独立カトリック教会の女性司祭となって人々を驚かせた。作品もレゲエやアイルランドの伝統曲、スタンダードのカヴァーなど伝統的な色合いが濃くなった。2003年にいったん引退を表明したが、2005年にレゲエのカヴァー集『スロウ・ダウン・ユア・アームズ』で復帰した。生涯に10枚のスタジオ・アルバムを出し、1992年と1994年の作品はイギリスでゴールド認定を受けた。映画への楽曲提供や慈善コンサートへの出演も重ねた。2021年の回想録はベストセラーとなった。影響を受けた音楽家としては、ボブ・ディラン、デヴィッド・ボウイ、ボブ・マーリー、スージー・アンド・ザ・バンシーズ、プリテンダーズを挙げていた。
長年、精神の健康の問題と闘い、2023年7月に亡くなった。警察は不審死として扱わず、2024年1月に検死官は自然死との見解を示した。のちに見つかった死亡診断書には、慢性閉塞性肺疾患と気管支喘息の悪化、軽度の下気道感染症が死因と記されていた。
同じ年に亡くなった人物
- ヴィジャヤカーント (2023年没)
- ジャック・ロジエ (2023年没)
- ニッキー・マックレイ (2023年没)
- ホルスト=ディーター・ヘットゲス (2023年没)
- エドワード・フレドキン (2023年没)
同じ地域に関係する人物
- ハーバート・ロム (2012年没)
- ゲオルク・エーレット (1770年没)
- エンリケ・グラナドス (1916年没)
- ジェームズ・トムソン (1882年没)
- アレクサンダー・ダリンプル (1808年没)