伝記
パルヴェーズ・ムシャラフは、1943年8月11日に生まれ、2023年2月5日に没したパキスタンの軍人・政治家である。日本ではペルベズ・ムシャラフ、パルヴェーズ・ムシャッラフなどと表記されることもある。イギリス領インドのオールド・デリー、ダリヤーガンジの中流家庭に三人兄弟の次男として生まれた。1947年のインド・パキスタン分離独立で一家はカラーチーへ移住した。父は外交官で、1949年から1956年までトルコに駐在したため、幼年時代の多くをトルコで過ごした。母は大学で英文学を修め、1986年まで国際労働機関に勤めた。
1958年にカラーチーの聖パトリック高校を卒業し、ラホールのフォアマン・クリスチャン・カレッジで学んだ。1961年にパキスタン陸軍士官学校に入り、1964年に砲兵連隊に配属された。1965年の第二次印パ戦争には青年将校として従軍して勲章を受け、コマンド部隊を志願して特殊部隊で7年間勤務した。1971年の第三次印パ戦争ではコマンド連隊の中隊長として戦った。その後は砲兵部隊や装甲部隊を指揮し、1991年1月に少将、1995年10月に中将に昇進した。1998年10月、ジャハーンギール・カラーマト将軍が辞任を強いられたあとを受け、陸軍参謀総長に指名された。1999年4月には統合参謀本部委員会議長も兼ねた。
1999年10月12日、無血のクーデターを起こした。この日、首相ナワーズ・シャリーフはムシャラフを解任し、軍統合情報局の局長を後任の参謀総長に据えようとした。ムシャラフは外遊中で、民間航空機で急ぎ帰国したが、シャリーフはカラーチー空港の閉鎖を指示し、機は上空を旋回して待機した。軍が空港を奪還し、機は燃料が切れる数分前にようやく着陸した。シャリーフは自宅軟禁ののち国外へ亡命した。ムシャラフは行政長官として最高権力者となり、国会と州議会を解散し、2001年6月20日に大統領に就任した。腐敗した前政権に嫌気がさしていた国民に当初は支持されたという。親米派として知られ、対テロ戦争ではアメリカへの協力を明確にしたが、国内では強い反発を受け、暗殺の標的にされることも多かった。一方で経済や社会の改革に取り組み、近代トルコ建国の父ケマル・アタテュルクを尊敬する政治家に挙げていた。
2007年10月6日の大統領選挙で圧倒的多数の票を得たが、陸軍参謀総長の出馬が違憲だとする訴訟が係争中で、当選の決定は遅れた。11月3日には、当選無効の判決を防ぐため軍で最高裁判所を封鎖し、チョードリー長官を解任して自宅軟禁し、非常事態を宣言して憲法を停止した。12月27日にはベーナズィール・ブットーが殺害され、情勢は混迷した。2008年2月の国民議会選挙で反ムシャラフ派が多数を占め、弾劾の動きが始まると、8月18日に「議会と対立すれば国が疲弊する」と演説して辞任し、ロンドンで事実上の亡命生活に入った。
ブットー暗殺事件に関しては、2011年2月に拘束令状が出された。2013年3月に逮捕猶予を認められて帰国したが、立候補は認められず、同年4月に最高裁長官らを不法に解任した疑いで逮捕された。2016年からは病気療養のためドバイに滞在した。2019年12月17日、2007年に憲法を停止したことが国家反逆罪にあたるとして、不在のまま死刑判決を受けたが、2020年1月13日にラホールの高等裁判所が、裁判が法に則っていなかったとして判決を破棄し、やり直しを命じた。2023年2月5日、アミロイドーシスの闘病の末、ドバイの病院で亡くなった。
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