HISTORICAL PERSON · 2023年没

李克強

中華人民共和国の政治家。第7代国務院総理を務め、共産主義青年団出身。経済政策は「リコノミクス」と呼ばれた。

生涯
2023年没
死亡地
中華人民共和国(上海市)
出生地
中華人民共和国(合肥市)
出典
世界地図
中華人民共和国(上海市)

伝記

李克強は、中華人民共和国の政治家である。1955年7月3日に安徽省合肥市で生まれ、2023年10月27日に68歳で没した。第7代の国務院総理を務め、党中央政治局常務委員にも就いた。胡錦濤と同じく中国共産主義青年団、いわゆる共青団の出身で、習近平とともに共産党第5世代の指導者とされた。経済学博士の学位を持つ理論家として知られた。

1974年3月から1978年3月まで、安徽省鳳陽県の大廟公社で労働に従事した。この間の1976年5月に入党し、同年11月には生産大隊の党支部書記となった。文化大革命が終わって全国統一の大学入試が復活すると、鳳陽県の首席の成績を収め、1978年3月に北京大学法律系へ入学した。在学中は全校学生会の責任者を務めている。1982年に卒業して法学士となり、共青団の北京大学委員会書記を経て共青団中央に入った。1985年には中国青年代表団の副団長として来日し、団長の胡錦濤とともに池田大作と会談したほか、安倍晋太郎外相や秘書官だった安倍晋三らと晩餐をともにした。1988年からは在職のまま北京大学の大学院で経済学を学び、1994年までに修士号と博士号を得た。1992年には岩手県の小沢一郎の自宅にホームステイもしている。1993年3月、共青団中央書記処の第一書記に昇格し、中国青年政治学院の院長を兼ねた。

1997年の第15回党大会で党中央委員となり、1998年に河南省へ赴任して副書記、副省長、省長代理を経て、1999年2月に省長となった。2002年12月に河南省党委書記、2004年12月には遼寧省党委書記へと転じている。2007年10月の第17回党大会後、二段飛びで政治局常務委員に選ばれた。同時に常務委員となった習近平と並び、胡錦濤の後継者の候補と目されたが、軍部や保守派が推したとされる習近平が後継に定まったと報じられた。李は2008年3月に国務院常務副総理となり、2012年11月に政治局常務委員に再選されて党内序列第2位となった。

2013年3月、第12期全国人民代表大会で第7代国務院総理に選ばれ、李克強内閣が発足した。当初は改革開放の推進を掲げ、経済政策は「リコノミクス」と呼ばれて注目されたが、習近平への権力集中が進むなかで経済政策の決定権も習が握り、存在感は低下していった。2018年5月には総理就任後初めて訪日し、安倍晋三首相と会談して、日中防衛当局間の海空連絡メカニズムの運用開始や通貨スワップ協定の再開などで合意した。北海道も視察している。2022年3月に翌年の任期満了での退任を明言し、同年10月の第20回党大会で政治局委員から外れた。2023年3月に総理を退いたが、習近平との溝は最後まで埋まらなかったとされる。

最後に公の場に姿を見せたのは2023年8月31日、甘粛省敦煌市の莫高窟の訪問だった。10月下旬から上海で療養し、27日に心臓発作で死去した。遺体は11月2日に八宝山革命公墓で火葬され、習近平を含む最高指導部7人全員が葬儀場を訪れたが、胡錦濤は花輪を贈るにとどめた。部下を決して怒鳴らず、公私で他人の悪口を言わず、周囲に常に笑顔を見せていたという。青年団時代の幹部によれば、「李克強は敵を作らない」とのことだった。夫人の程虹は首都経済貿易大学の英文科教授で、二人の間には一女がいる。国務院総理としては、改革開放の価値観を擁護し続けたことを評価する声もある。

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