伝記
ジョヴァンニ・ドメニコ・カッシーニは、イタリア出身でフランスで活躍した天文学者である。1625年6月8日に、ペリナルドで生まれ、1712年9月14日にパリで没した。父はトスカーナ出身のヤコポ・カッシーニ、母はジュリア・クロヴェージである。出身地の帰属は、ジェノヴァ共和国ともサヴォイア家領のニース伯領ともいわれる。若い頃は天文学よりも占星術に興味があり、その知識が天文学への関心のきっかけとなったが、のちに独力で多くの天文学的発見をなし、占星術を公然と批判するようになった。
1648年、ボローニャ近郊のパンザーノ(カステルフランコ・エミリア)にある天文台に迎えられた。裕福なアマチュア天文家コルネリオ・マルヴァジーア侯爵のもとで働き、ここでジョヴァンニ・バッティスタ・リッチョーリやフランチェスコ・マリア・グリマルディのもとで学問を修めた。1650年にはボローニャ元老院から、ボローニャ大学の天文学の教授に任じられた。1652年の彗星を観測して書物にまとめ、水利技師としても元老院に雇われ、1657年には教皇アレクサンデル7世から要塞の監督官に任命された。のちには教皇領の水路長官も務めた。ボローニャのサン・ペトロニオ聖堂では、床に引かれた子午線の上で、天井近くの針穴から太陽像を映す工夫を教会側に認めさせ、1年を通じた太陽の直径の変化を測り、ケプラーの楕円軌道説と矛盾しないと結論づけた。
1665年から1667年にかけて木星と火星の自転周期を求めて名声を高め、1669年に教皇のしぶしぶの同意のもとで、コルベールの招きに応じ、ルイ14世の援助でパリ天文台の設立を助けるためにフランスへ移った。ボローニャを発ったのは2月25日である。天文台は1671年9月14日に完成し、台内の住居に移った翌月の10月25日に、土星の衛星イアペトゥスを発見した。1672年にはレアを、1684年にはテティスとディオネを見つけた。これらの4つの衛星を「ルイの星」と呼び、イアペトゥスの明るさが変化することは、片側に暗い物質があるためだと正しく見抜いた。1675年には土星の輪に隙間があることを見つけ、これはのちにカッシーニの間隙と呼ばれた。木星の大赤斑は、ロバート・フックとともに発見者とされ、1690年頃には木星の大気の差動回転も初めて観測した。1680年には月面図を作った。
1672年、同僚のジャン・リシェをギアナのカイエンヌに送って火星を同時に観測させ、視差から距離を求め、太陽系の大きさを見積もった。ガリレオが提唱した木星の衛星の食を使う方法で、本格的な経度の測定にも初めて成功し、この方法でフランスの国土が予想より小さいと分かると、王は、自分が戦争で得た以上の領土をカッシーニに奪われたと冗談を言ったという。1673年に帰化し、ジャン=ドミニクと名乗った。1674年にジュヌヴィエーヴ・ド・ライストルと結婚し、2人の息子を得て、次男のジャックが後を継いだ。孫のセザール=フランソワは初代台長となり、一族は4代にわたってパリ天文台で観測を続けた。1711年に失明し、87歳で没した。1997年打ち上げのアメリカ航空宇宙局の土星探査機に、その名が付けられている。
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