伝記
ドゥニ・パパンは、1647年8月22日に生まれたフランスの物理学者、発明家である。圧力調理器「ダイジェスター」の発明者、蒸気機関の原理の開発者として知られる。フランス中部のブロワ近郊で、同名の父と母マドレーヌ・ピノーのもとに10人兄弟の4番目、長男として生まれた。一家はユグノー教徒であった。6歳から伯父の保護のもとでソーミュールのユグノー・アカデミーに通い、1661年からアンジェの大学で医学を学び、1669年に学位を得た。翌1670年に医者としてパリへ出たが、数学や力学への興味を捨てられず、1671年からクリスティアーン・ホイヘンスの助手となった。空気ポンプなどの器具を作って空気や気圧、真空に関する実験を重ね、1674年にその成果を書物にまとめた。ライプニッツとの交流もこのころに始まった。
1675年にホイヘンスの紹介でロンドンへ渡り、1676年から王立協会でロバート・ボイルの助手を務めた。ボイルが病気になってからは、ほとんどの実験と執筆を代わって行った。1679年からはロバート・フックの助手となり、この間に水の沸騰温度が圧力に依存することを見いだして、安全弁つきの圧力調理器「ダイジェスター」を発明し、王立協会へ提出した。安全弁の発明者としても知られる。1680年には、ボイルとフックとの優れた研究により、王立協会のフェローとなった。1681年にイタリアへ渡り、1684年までヴェネツィアの公立科学アカデミーの実験主任を務めた。同年ロンドンに戻り、1687年まで王立協会の実験担当にとどまった。母国では1685年にルイ14世がナントの勅令を廃止し、パパンは亡命者の身分となった。
1687年、ドイツのヘッセン=カッセル方伯に招かれてマールブルク大学の数学教授となり、フランスを逃れたユグノーたちと交流した。1691年には、未亡人となった従妹のマリー・パパンと結婚した。1689年には、加圧ポンプとふいごで潜水鐘内に空気を保てることを示した。シリンダ内に真空を作って大気の力を利用する研究を進め、ダイジェスターでの経験から蒸気に行き着き、1690年にシリンダとピストンを用いた蒸気機関の模型を作った。これがその後の蒸気機関の原理となった。1696年に大学を去り、以後は方伯領で働いた。空気銃や手りゅう弾の発射装置も考案し、ガラス工業を興そうとしたほか、1707年には初の外輪船を建造した。
その1707年、妻子をドイツに残してロンドンへ戻った。1712年までに王立協会へいくつか論文を出したが、紹介されたものの出版はされなかった。鉱石を溶かすための送風装置の案は、後の送風炉の基礎となるものであった。協会での再度の職を望んだが、財政難などから実現せず、会長のアイザック・ニュートンが賛成しなかったともいわれる。パパンは、協会が自分を正当に評価しなかったと強い不満を抱いていた。1712年1月23日付の手紙を最後に記録が途絶え、貧窮のなかでロンドンで没したとされてきた。ところが2016年になって、セント・ブライズ教会に1713年8月26日付で「デニス・パパン」が埋葬されたらしい記録が見つかり、同教会の西側入り口に記念の銘板が設置された。ライプニッツとは、1689年から1692年にかけて、活力論争を含む多くの話題について往復書簡を交わしている。
同じ年に亡くなった人物
- ドロテア・マリー・フォン・ザクセン=ゴータ=アルテンブルク (1713年)
- Giuseppe Maria Tomasi (1713年)
- フェルディナンド・デ・メディチ (大公子) (1713年没)
- カルロ・マラッタ (1713年没)
- パヴァオ・リッテル・ヴィテゾヴィッチ (1713年)
同じ地域に関係する人物
- グランヴィル・バントック (1946年没)
- チャールズ・リトルトン (第10代コバム子爵) (1977年没)
- ロバート・モリソン (植物学者) (1683年没)
- ジョン・ピム (1643年没)
- アントニー・アシュリー=クーパー (第3代シャフツベリ伯爵) (1713年没)