HISTORICAL PERSON · 1713年没

フリードリヒ1世 (プロイセン王)

初代プロイセン王。1701年にハプスブルク家に味方する代償として王の称号を許され戴冠した。ハレ大学の創立やベルリン学術協会の設立など学芸を振興した一方、寵臣に国政を左右される君主でもあった。

生涯
1713年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ベルリン)
出生地
ドイツ帝国(ケーニヒスベルク)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ベルリン)

伝記

フリードリヒ1世は、1657年7月11日に生まれ、1713年2月25日に没した初代の「プロイセンにおける王」である。はじめはブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世、兼プロイセン公で、父はフリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯、母はオラニエ公フレデリック・ヘンドリックの娘ルイーゼ・ヘンリエッテであった。ケーニヒスベルクに生まれ、オランダ総督でイングランド王のウィリアム3世は母方の従兄にあたる。ルイ14世に憧れるような虚栄心の強い浪費家で、父や孫のフリードリヒ2世に比べると凡庸な君主と評されるが、妃の影響もあって学芸を振興した。

エーバーハルト・フォン・ダンケルマンに教育を受け、1674年12月に兄カール・エミールが早世したため、選帝侯位の継承者となった。1679年に従妹のエリーザベト・ヘンリエッテと結婚し、翌年に娘ルイーゼ・ドロテーアが生まれたが、妃は1683年に亡くなった。1684年には、ハノーファー選帝侯の娘ゾフィー・シャルロッテと再婚し、1688年に後のフリードリヒ・ヴィルヘルム1世が生まれた。ゾフィー・シャルロッテはフランス語が巧みで知性あふれる女性で、そのサロンには一流の芸術家や学者が集まり、ベルリンの知識階級は活気づいた。多情だった夫とも仲は良く、彼の文教政策は彼女の影響を強く受けている。

1688年に父が没すると選帝侯を継ぎ、恩師ダンケルマンを大臣に登用した。同年にフランスが大同盟戦争を起こすと、他の帝国諸侯と協議してライン川から北のモーゼル川戦線の守備を担当した。父がルイ14世との提携を求めたのとは対照的にフランスと対立し、1689年には軍を率いてボンを包囲し、攻略した。それでもフランス文化を好み、宮廷はルイ14世の宮廷にならって築いた。1693年にハレ大学を創立し、建築家のシュリューターを招いてベルリン武器庫の建設を始めさせ、1696年には絵画・彫刻・建築芸術アカデミーを創設した。1699年にはリーツェンブルク宮殿(現在のシャルロッテンブルク宮殿)を造営し、1700年にはベルリン学術協会を設けて、会長にライプニッツを迎えた。ただ、文化に関する本人の発言は残っておらず、妃の影響や貢献が大きいと考えられている。

1700年11月16日、スペイン継承戦争でハプスブルク家に味方し、約8,000の兵を提供することを約束して、その代償に神聖ローマ皇帝レオポルト1世から王の称号を許された。ドイツの法では帝国内に王国は存在できなかったが、プロイセンは帝国の外にあるとして王国への昇格が認められた。1701年1月18日、厳寒のケーニヒスベルクで自ら戴冠し、「プロイセンにおける王」となった。ポーランド側が反対したこともあって、「プロイセンの王」ではなく「プロイセンにおける王」と名乗った。この時からホーエンツォレルン家の雑多な所領は王のもとに統一され、近代国家としてのまとまりを形成していく。

しかし名君とは言い難く、寵臣に決断を左右される優柔不断な君主だった。ヴィトゲンシュタイン、ヴァルテンスレーベン、ヴァルテンベルクの三人の伯爵が1710年まで国政を壟断したが、この年に罷免された。1705年にゾフィー・シャルロッテが亡くなり、1708年には28歳年下のゾフィー・ルイーゼと再婚したが、幸福な結婚ではなかった。1713年2月25日、ベルリンで亡くなった。

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