HISTORICAL PERSON · 483年没

シンプリキウス (ローマ教皇)

第47代ローマ教皇(在位468〜483年)。単性説に保守的な立場をとり、異民族の襲撃からイタリア人を守るのに尽くした。ローマに聖ビビアナ教会を建立し、476年のオドアケルによる皇帝追放も目撃した。

生涯
483年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(ティヴォリ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

シンプリキウスは、第47代ローマ教皇(在位468年3月3日〜483年3月10日)である。イタリアのティヴォリで、カスティヌスあるいはコスティヌスという人物の息子として、420年頃に生まれたとされる。生涯の多くは教皇伝記集『リベル・ポンティフィカリス』の記述によって知られるが、それ以外に伝わることは少なく、在位中に起きた軍事・政治上の大事件と彼を直接結びつける材料もない。前任者ヒラルスの死後、十日間の空位を経てローマ司教に選ばれた。

在位中は激動の時代であった。五人の短命な皇帝が相次ぎ、472年にはリキメルがローマを包囲し、476年にはロムルス・アウグストゥルスが廃されてゲルマン人のオドアケルがイタリアの実権を握った。シンプリキウスはゲルマン人傭兵の反乱と、この帝位の断絶を目の当たりにしたとされ、蛮族の襲撃からイタリアの人々を守るために尽くしたと伝えられる。オドアケルとは折り合いをつけたようで、皇帝が伝統的にローマ司教の選出を確認していたのと同様に、この支配者がその役割を担うことで合意したという。

東方では、キリストの性格をめぐる単性説が勢いを増していた。教皇はカルケドン公会議の決定を守る保守的な立場をとり、在位の初めにはコンスタンティノープル総主教アカキオスが、首都に対しローマと同等の名誉ある地位を認める公会議の第28条を承認させようとしたことに反対した。しかし、西方に政治的な空白が生じたため、教皇は東方の皇帝たちに支持を求めざるを得なくなった。476年には簒奪者バシリスコスに数通の書簡を送り、単性説寄りの姿勢を改めさせようとしたが、効果はなかった。復位した皇帝ゼノンはアカキオスとともに、カルケドン派と単性説派の対立を収める妥協策を探っており、教皇の働きかけはここでも実らなかった。479年には、単性説派の司教ペトルス・フッロがアンティオキア司教に就くのをしぶしぶ受け入れざるを得ず、以後は東方の皇帝や総主教からほとんど無視されるようになった。アレクサンドリアの司教にペトルス・モンゴスが就くことにも反対し、正統派の候補ヨハネス・タライアを擁護したが、アカキオスとゼノンがペトルス・モンゴスとの和解を進めたため効き目がなく、やがて合同勅令が出された。

イタリアでは、ローマ司教座の権威を保とうと努めた。権限を越えた司教たちを戒め、アルティヌムの司教からは叙階の権利を取り上げ、ピケヌムの司教たちには教会の収入の四分の一を超えて保持してはならないと注意した。勢力を増したラヴェンナの司教ヨハネス2世には、本人が望まない聖職者をモデナの司教に昇格させたことを咎め、大司教としての権利を剥奪すると警告した。イタリアの外では、ローマ司教として初めてスペインに司教座代理を置き、セビリャのゼノンをその任にあてた。ローマ市内では58人の司祭を叙階し、三つの大聖堂に周辺の教区の聖職者を割り当てて洗礼と埋葬を担わせた。聖ビビアナ教会を建立したことも記録されている。

長い臨終の床にあった教皇は、ローマ教会の指揮を親衛隊長官に委ねた。長官はこの立場を利用して、ローマの聖職者、司教、信徒の一団を集めた会議を開いた。その結果出された決定は、聖職売買や影響力の取引を避けるためローマ司教の選出に元老院の承認を求めるものであり、あわせて司教が教会財産を手放すことを禁じ、貴族の寄進を蓄えて私腹を肥やすのを防ぐ内容も含んでいた。483年3月10日に没し、のちにカトリック教会で聖人とされ、記念日は3月10日である。

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