伝記
ルイ14世は、1638年9月5日にサン=ジェルマン=アン=レーで生まれ、1715年9月1日に没したブルボン朝第3代のフランス国王である。在位は1643年から1715年までの72年に及び、フランス史上最長であるうえ、ギネス世界記録にも認定されている。ルイ大王、太陽王と呼ばれ、王朝の最盛期を築いた。
ブルボン家のアンリは、1589年にヴァロワ朝が断絶すると即位してブルボン朝を開いた。アンリ4世はナント勅令を出して長い内戦を終わらせ、1610年の暗殺後は嫡男ルイ13世が即位して、リシュリュー枢機卿を宰相に起用した。ルイ13世と王妃アンヌ・ドートリッシュは不仲で、23年間子が生まれなかったため、待望の王位継承者の誕生は国王にも国民にも大きく祝福された。「神の賜物」を意味するルイ・デュードネの洗礼名を授かり、「フランスの長男」と王太子の称号を受けた。祖父母はアンリ4世とマリー・ド・メディシス、スペイン王フェリペ3世と妃マルガレーテで、多彩な文化的背景を持って生まれた。1643年5月にルイ13世が崩御し、4歳で即位して母后アンヌが摂政となった。ルイ13世は摂政諮問会議の設置を遺言していたが、アンヌとマザランはパリ高等法院の支持を得てこれを破棄し、アンヌはマザランに全権を委ねた。財政難に苦しむ民衆も貴族も、スペイン人の摂政太后とイタリア人の枢機卿を憎んだという。
マザランは三十年戦争への介入を続け、外交手腕でアルザスを獲得したが、戦費は莫大で重税が民衆の不満を高めた。1648年、新税の導入に反対したパリ高等法院が要求書を出し、マザランが首謀者を逮捕するとパリの民衆がバリケードを築いて蜂起し、フロンドの乱が始まった。国王と摂政はパリを脱出した。のちに貴族のフロンドも起き、マザランは一時亡命を余儀なくされたが、1652年にルイ14世が13歳で成人を宣言すると高等法院は王権側につき、混乱に疲れた反乱側は脱落して、1653年にコンデ公がスペイン領ネーデルラントへ亡命し、乱は終わった。17歳のルイ14世が高等法院で「朕は国家なり」と言い放ったという逸話がヴォルテールの著作に見えるが、現代の研究では創作とされる。1659年のピレネー条約でフランスとスペインの国境が定められ、ルイ14世はフェリペ4世の王女マリー・テレーズと婚約した。恋仲だったマザランの姪マリー・マンチーニとは別れさせられ、1660年に結婚した。スペインは莫大な持参金の支払いに同意したが、実際には支払われず、のちに戦争の口実とされた。
1661年3月にマザランが死去すると、翌日から親政を開始し、以後は宰相を置かないと宣言した。国務会議から王族や大貴族を排除し、法服貴族やブルジョワを登用して王権を強め、地方には監察官を派遣して大貴族の権限を縮小した。親政の象徴的な事件が、私財を蓄えていた大蔵卿フーケの逮捕と投獄である。フーケの競争相手だったコルベールは、1665年に財務総監となり、税制を改善して債務を減らし、輸入を抑えて輸出を伸ばす重商主義政策を進め、王立マニュファクチュールや海軍の増強にも力を注いだ。東インド会社や西インド会社を設けて植民地を拡げ、ヌーベルフランスの人口は4倍に増えたという。
その後、帰属戦争や仏蘭戦争で領土を拡張して権威を高め、王権神授説とガリカニスムのもとで絶対君主制を確立した。ミディ運河とヴェルサイユ宮殿も建設された。しかし治世の後半のアウクスブルク同盟戦争とスペイン継承戦争では苦戦し、晩年には莫大な戦費と放漫な財政によって、フランスは深刻な財政難に陥った。
同じ年に亡くなった人物
- Ernest, Duke of Saxe-Hildburghausen (1715年)
- ミール・ワイス・ホターキー (1715年没)
- トーマス・バーネット (1715年没)
- William Wycherley (1715年)
- ニコラ・ド・マルブランシュ (1715年没)
同じ地域に関係する人物
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- ポンパドゥール夫人 (1764年没)
- イヴ・アレグレ (1987年没)
- ミシェル=リシャール・ドラランド (1726年没)
- エレーヌ・ブーシェ (1934年没)