伝記
エドワード・ジョン・スミスは、豪華客船タイタニックの船長を務め、1912年の沈没事故で命を落としたイギリスの船乗りである。1850年1月27日、イングランド中部のハンリー(現在のストーク=オン=トレント)に、陶芸家の父エドワードと母キャサリンの子として生まれた。貧しい地区で育ち、エトルリア・ブリティッシュ・スクールに通ったが、13歳でリバプールの船舶の仕事に就いた。のちにギブソン社に入り、1869年には見習い士官として船に乗り込み、1875年に資格を得て、翌年は四等航海士として航海した。
1880年3月、ホワイト・スター・ライン社に移ってセルティックの四等航海士となり、オーストラリア航路やニューヨーク航路で昇進を重ねた。1887年に船長となり、翌1888年には特別船長資格を取って英国海軍予備役大尉にもなった。このため、他の商船が掲げるレッド・エンサインではなく、ブルー・エンサインを掲げる権利を持っていた。同じ1887年7月12日にはサラ・エレノア・ペニントンと結婚し、1898年に娘ヘレンが生まれた。一家はサウサンプトンの赤レンガの家に住み、ウッドヘッドと呼んでいた。ヘレンによれば、スミスは葉巻を好み、煙の輪を乱されないよう、吸っている間は誰も書斎に入れなかったという。
1895年から9年間は客船マジェスティックの船長を務めた。1899年に第二次ボーア戦争が始まると、ケープ植民地への軍隊輸送にあたり、2回の航海を無事に終えた。この功で1903年にエドワード7世から勲章を授かり、安全な船長との評価を得た。もっとも、その後の航海では3度の座礁と3度の船内火災があった。穏やかで華麗な人柄は乗客や乗組員に好まれ、上流階級の要望もあって「大富豪たちの船長」と呼ばれた。1904年に専任船長となり、新造船の処女航海を任されるのが通例となった。同年のバルチック、1907年のアドリアティックの処女航海はいずれも無事故だった。さらに、世界最大のオリンピック級客船の第1船オリンピックの最初の船長に請われ、1911年6月21日にニューヨークへの処女航海を終えた。ただし接岸の際、タグボート1隻を後流で衝突させる事故があった。同年9月20日にはイギリス海軍の防護巡洋艦ホークと衝突した。ブリッジにはスミスがいた。海軍側はオリンピックの巨大さによる吸引が原因だと主張した。修理のためにタイタニックの完成は遅れ、処女航海は4月10日に延期された。
62歳のスミスはタイタニックの船長に再び任命された。この航海を最後に引退する予定だったとの説があるが、会社がより大きな汽船を完成させるまで担当し続けると伝えた新聞もあった。4月10日、サウサンプトンを出港する際、係留具が外れたシティ・オブ・ニューヨークがタイタニックに向かってきたが、スミスの迅速な行動で衝突は避けられた。しかし4月14日の23時40分、北大西洋で氷山に衝突し、船は2時間40分後に沈没して約1,500人が亡くなった。スミスもその一人である。最期については諸説あり、遺体は発見されていない。救命胴衣姿で海中にいたと証言する生存者もいれば、浸水するブリッジで操舵室にいたとする証言もある。リッチフィールドには彼の像が建てられ、映画にも描かれ、最初に演じたのは1943年のドイツ映画のオットー・ヴェルニッケで、1997年の『タイタニック』ではバーナード・ヒルが演じた。
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