HISTORICAL PERSON · 1723年没

クリストファー・レン

イギリスの建築家・天文学者。25歳でオックスフォード大学の天文学教授となり、ロンドン大火からの復興を担ってバロック建築をイギリスに取り入れた。

生涯
1723年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / ロンドン)
出生地
イギリス連邦(East Knoyle)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

サー・クリストファー・レンは、イギリスの建築家であり天文学者である。ユリウス暦で1632年10月20日に生まれ、1723年2月25日(グレゴリオ暦3月8日)に没した。ロンドン大火後の復興を指揮し、バロック建築をイギリスに取り入れた王室の建築家として知られる。

同名の父はウィンザーの首席司祭で、伯父のマシュー・レンはイーリーの司教であり、2人とも高教会派の中心人物だった。ウィルトシャーに生まれ、9歳でウェストミンスター・スクールに送られた。一家は強い王党派で、内戦期に困難を味わい、伯父は8年間もロンドン塔に投獄され、父はウィンザーを離れてブリストルに避難した。のちに姉がウィリアム・ホルダーと結婚すると、一家はその家に身を寄せ、数学者のホルダーはクリストファーの家庭教師となって天文学への関心を促したという。学校を出た後の数年は外科医のスカーバラの解剖研究を手伝い、日時計や太陽系の模型の研究も行った。その後オックスフォードのウォダム・カレッジに入り、のちに王立協会を創設する人々と親交を結んだ。トーマス・ウィリスの脳の解剖書のために脳の図を描くなど、解剖の研究を続けた。

1657年にロンドンのグレシャム・カレッジの天文学教授となり、1661年にはオックスフォードの教授に就いた。25歳での就任である。土星の観察に取り組んだが、ホイヘンスの輪の理論のほうが優れていると認めて、自説を公表しなかった。王立協会の創設にも加わり、1680年から1682年には会長を務めた。ニュートンも、レンをウォリスとホイヘンスに並ぶ当時最大級の数学者の一人と記している。日記作家のイーヴリンは、彼を奇蹟の若者と呼んだ。

建築への関心の由来は定かでないが、遠近法やベルニーニの美学など、幾何学の研究の応用として捉えていたという。1661年にはタンジールの港の防備を依頼されたが、断っている。1663年にはオックスフォードのシェルドニアン劇場と、ケンブリッジのペンブルック・カレッジのチャペルを手がけ、すでに優れた才能を示した。1665年から1666年にかけて、パリに8〜9か月滞在し、マンサールやル・ヴォーの作品を学び、ベルニーニにも会って、フランスとイタリアのバロックから多くを吸収した。

1666年のロンドン大火のとき34歳で、復興のため壮大な都市計画を構想した。これは大地主の反対で実現しなかったが、再建法に基づく監督官の一人に指名され、1669年には王室建設局の建築総監となった。この法により家屋の不燃化や道路の幅などが定められ、今日のロンドンの骨格が形づくられた。焼失した50を超えるシティ・チャーチの再建にも当たり、聖スティーブン・ウォルブルック教会などを手がけた。傑作がセント・ポール大聖堂で、1675年に起工され1709年に完成し、レンは存命中にそれを見ることができた。ハンプトン・コートやグリニッジの宮殿も建てた。1673年にナイト爵を受け、下院議員にもなったが、1714年にジョージ1世が即位すると官職を失った。二度結婚し、1723年3月7日にセント・ポールを見に行って風邪をこじらせ、翌朝、睡眠中に亡くなっているのを執事に発見された。

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