伝記
ネブカドネザル3世は、紀元前522年の末にバビロンの王を称した反乱の王である。バビロニアを独立した王国に戻し、メソポタミアにおけるアケメネス朝ペルシアの支配を終わらせようと試みた。楔形文字ではナブー・クドゥリ・ウツル(「ナブーよ、わが跡継ぎを守れ」の意)、古代ペルシア語ではナブクドラチャラと書かれる。本来の名はニディンティ・ベルで、古代ペルシア語ではナディタバイラとも記される。バビロニアの貴族でザザック家の出身であり、父の名はムキーン・ゼーリ(キーン・ゼールとも)といった。即位に際してネブカドネザルの名を名乗り、バビロン最後の独立した王ナボニドスの子であると称した。
背景には、新バビロニア帝国の滅亡がある。メソポタミア自身の出身者が君主を務めた最後の大帝国は、紀元前539年にキュロス大王率いるペルシアに征服されて終わった。以後のバビロンは、独立した王国の唯一の首都に戻ることはなかった。ただし古い歴史の威信から重要な都市であり続け、人口は多く、城壁は堅固で、地元の祭祀も機能していた。アケメネス朝の首都のひとつにも数えられたが、征服者は自分たちの政治の中心をメソポタミアの外にも保ち、バビロンの権威に頼らずに統治できたため、都市の威信は取り戻せないほど損なわれた。
ペルシアの王たちは「バビロンの王」「諸国の王」の称号を使い続けたが、時とともにバビロニア人の支持は薄れていった。異民族であること自体はあまり関係がなかったとされる。伝統的な王の務めは、民族や文化がバビロニアのものであることを求めておらず、外国人の支配者が支持された例も、土着の王が嫌われた例もあったからである。重要だったのは、王が伝統に沿って務めを果たすかどうかだった。ペルシアの王は首都をほかに置き、バビロンの伝統的な儀礼にほとんど加わらなかった。王の臨席が要る儀礼は、従来の形では行えなかった。神殿の建設や神々への供物といった務めも、めったに果たさなかった。このためバビロニア人は、王としての務めを怠り、神の承認を欠くと見なした可能性がある。
バビロンはペルシアの支配に何度か反乱を起こし、最初のものがネブカドネザル3世の反乱だった。征服から17年後の紀元前522年のことである。バビロンの反乱はいずれも、神官団に連なる家々から最も強い支持を得た。当時のアケメネス朝は政治的な混乱のさなかにあり、帝国の各地で、新たに王となったダレイオス1世への反乱が起きていた。多くの反乱は、もとはダレイオスに倒された前王バルディヤに向けられたものだった可能性が高い。ネブカドネザル3世の反乱も、人気のなかったバルディヤの支配を振り払うものとして始まったとみられるが、反乱が始まったときには、すでにバルディヤはダレイオスに倒されていた。
最古の記録は、紀元前522年10月3日付の楔形文字の書簡で、王の治世第1年に書かれたと記す。この日が即位の日だった可能性がある。ネブカドネザル3世はバビロンのほか、ボルシッパ、シッパル、ウルクを素早く掌握し、バビロニア全体を支配下に置いたかもしれない。しかし12月13日、自らの軍でペルシア軍のティグリス川渡河を阻めず、12月18日にはユーフラテス川に近いザザナ付近の戦いで決定的に敗れた。敗走してバビロンに逃げ込んだが、都市はダレイオスに間もなく占領され、ネブカドネザル3世は処刑された。ダレイオスのベヒストゥン碑文では、短いあごひげの老人として描かれており、即位時にはすでに高齢だったかもしれない。
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- Gaumata (紀元前521)
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