伝記
ヴィットーリオ・アメデーオ2世は、1666年5月14日に生まれ、1732年10月に没したサヴォイア公であり、のちにシチリア国王、次いでサルデーニャ国王となった人物である。サヴォイア公としての在位は1675年から1730年で、シチリア国王は1714年から1720年、サルデーニャ国王は1720年から1730年である。サヴォイア家で初めて王冠を得た君主であり、在位は55年を超えて同家の歴代君主のうち最長とされる。
トリノで、サヴォイア公カルロ・エマヌエーレ2世と、サヴォイア家分家のヌムール家出身のマリーア・ジョヴァンナ・バッティスタの間に、唯一の子として生まれた。幼いころは病弱で、健康を気遣って作られたパンがグリッシーニだという伝承がある。一方で兵隊に夢中になり、聡明だったと伝わる。1675年に父が40歳で亡くなって公位を継いだが、母が摂政となり、フランス寄りの政策を採った。母は1677年に、従姉であるポルトガル王女との結婚を勧めた。結婚すれば息子がポルトガルで暮らすことになり、母が摂政として公国を握り続けられるからだったが、彼は拒み、契約が結ばれたのちに婚約は解消された。1680年には塩税への不満からモンドヴィなどで反乱が起こり、摂政の母は代表をトリノへ呼んだ。若い公は彼らを丁重に迎えて条約に同意し、わずかながら権力を行使する機会を得た。1684年にフランス王ルイ14世の姪で又従妹のアンヌ・マリーと結婚させられたが、同年に親政を宣言して母の影響力を退けた。
プロテスタント弾圧を進めるルイ14世に同調し、1686年にはフランス国境に潜むヴァルド派をスイスへ退去させた。しかし1690年にはその帰国を認め、アウクスブルク同盟に加わってルイ14世から離れた。大同盟戦争では又従弟のプリンツ・オイゲンとともにフランス軍と対峙したが、1690年のシュタファルダの戦いと1693年のマルサリーアの戦いで敗れ、1696年にトリノ条約で和睦して同盟を離脱した。ピネローロとカザーレ・モンフェッラートを返還させ、娘マリーア・アデライデをルイ14世の孫ブルゴーニュ公ルイに嫁がせた。もう一人の娘マリーア・ルイーザは、のちのスペイン王フェリペ5世に嫁いでいる。スペイン継承戦争では初めフランス側だったが、1703年に同盟側と密かに連絡を取っていたことが発覚すると同盟に復帰し、1706年にオイゲンとともに包囲されたトリノを解放した。ユトレヒト条約で1713年にシチリア王国を得たが、1720年のハーグ条約で皇帝カール6世にこれを割譲して、代わりにサルデーニャ島を得て、サルデーニャ王国を成立させた。
国内ではピエモンテを中心に政治改革を進め、貴族の領土を没収して中層階級に分け与え、中央から派遣する代官の権限を強化して絶対君主制を確立した。トリノの都市改造とトリノ大学の充実に力を尽くし、大学に1万冊の図書を寄贈し、イエズス会を教育から排除して教会の力も弱めた。トリノの王宮やヴェナリア宮の改築、スペルガ聖堂の建設も手がけ、聖堂には墓所がある。1730年に退位して息子カルロ・エマヌエーレ3世に譲り、2年後に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ルイ・マルシャン (1732年没)
- ハーマン・モール (1732年)
- アンドレ・シャルル・ブールフランス (1732年没)
- Rabia Sermi Kadin (1732年没)
- Balthasar Permoser (1732年)
同じ地域に関係する人物
- ダンテ・ジアコーサ (1996年没)
- エリザベッタ・テレーザ・ディ・ロレーナ (1741年没)
- ニコラ・フーケ (1680年没)
- ボニファーチョ・ディ・サヴォイア (1263年没)
- Teobaldo Depetrini (1996年没)