伝記
テュアナのアポロニオスは、1世紀ごろのローマ帝国期に活動した新ピタゴラス派の哲学者、宗教家、魔術師である。ピタゴラスを信奉し、西はヒスパニア、東はインドまで弟子とともに遍歴して、疫病退散や悪魔祓い、死者蘇生などの奇跡を行ったと伝えられる。後世にはペテン師とも聖者とも評され、ナザレのイエスと似た点が多いことからキリスト教で議論の的になった。イスラム世界ではバリーナースとも呼ばれた。
詳しい伝記は、3世紀のピロストラトスが書いた『テュアナのアポロニオス伝』だけが伝わる。皇后ユリア・ドムナの依頼で書かれたもので、現実離れした内容や脚色を含むため信憑性は乏しい。生没年は不詳で、生年は1世紀初頭ごろ、没年はネルウァ帝の在位中(96年から98年)とされる。カッパドキアの要衝テュアナの富裕な家の次男に生まれ、出生譚では、妊娠中の母の夢に海神プロテウスが現れ、「お前は私を産む」と告げたという。少年時代から記憶術やアッティカ方言に優れ、14歳でタルソスとアイガイで諸派の哲学を学び、15歳から新ピタゴラス主義に傾倒した。以後は飲酒、屠畜、性愛を避け、アイガイのアスクレピオス神殿で神殿医学に従事した。20歳でテュアナに戻ると財産の大半を親族に譲り、5年間一切言葉を発さずにキリキアやパンフィリアを巡り、筆談で諍いを仲裁した。
40歳代のころ、ピタゴラスにならって見聞を広めるため東方へ旅立った。バビロンでは王やマゴイと語り合い、インドではアレクサンドロス大王の足跡をたどりながら、バラモン僧らと哲学問答を交わした。約4か月をインドの僧院で過ごし、星辰の名が刻まれた七つの指輪を授かったともいう。帰還後は地中海のイオニア、ギリシア、ローマを巡り、エペソスでは儀式によって疫病を退散させ、トロイアではアキレウスの霊を召喚したと伝えられる。ネロの暴政下のローマでは不敬罪で逮捕されたが、起訴状の文字を消す奇跡で逃れ、結婚式の直前に死んだ名家の花嫁を生き返らせたともいう。その後イベリア半島、北アフリカ、エジプトなどを遍歴し、帝位に就く前のウェスパシアヌスに助言した。ティトゥスやネルウァから崇敬された一方、ドミティアヌスには暴動教唆や魔術の罪で投獄されたが、瞬間移動で脱獄したとされる。晩年はエペソスで弟子の教育に努め、96年のドミティアヌス暗殺を千里眼で見届けて歓喜した。最期には、100歳以上生きたとも、死後に復活して弟子の前に現れ昇天したともいう複数の伝承がある。
著作はほぼすべて散逸し、書簡も偽作の疑いがある。『スーダ』には神託に関する著作が挙がり、インドで得た知識をもとに占星術の書や犠牲儀礼の手引きを書いたとも伝えられる。2世紀のルキアノスが早くに言及し、セウェルス朝の皇帝たちは彼を崇敬した。カラカラは神殿を建て、アレクサンデル・セウェルスの礼拝所にはイエスらと並んで彫像が置かれた。軍人皇帝アウレリアヌスは、テュアナに侵攻した際に幻影に諭されて略奪を思いとどまったという。キリスト教徒の多くは異端の魔術師とみなしたが、ヒエロニムスやラクタンティウスは賢者として好意的にも捉えた。中世イスラム世界では賢者とされ、ヘルメス主義や錬金術の書が仮託された。ペルシア文学にも賢者として登場する。17世紀にはブラウントがイエスと比較し、18世紀にはギボンが言及して論争を招き、19世紀にはエリファス・レヴィが霊を召喚したと報告した。
同じ年に亡くなった人物
- テッサロニケのピリッポス (100年(推定))
- アレオパゴスのディオニシオ (100年(推定))
- Andronicus of Pannonia (100年(推定))
- 聖ペトロニラ (100年(推定))
- ルキリウス (100年(推定))
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