伝記
ダヴィト4世は、ジョージア王国バグラティオニ朝の5代目の王で、「建設王」の異名を持つ。数え方の違いからダヴィト2世とも呼ばれる。1072年または1073年に生まれ、1089年から1125年1月24日にトビリシで死去するまで在位した。東方正教会とカトリック教会の双方から聖人とされている。
父はジョージア王ギオルギ2世、母は王妃で、一人息子として生まれた。王宮に仕えたとみられる聖職者から教育を受けた。当時のジョージアはセルジューク朝の猛威にさらされ、父は何度も敗れており、ダヴィトは戦乱と荒廃のなかで育った。王国内でギオルギ2世への反対勢力が強まり、幼いダヴィトを擁立する形で1089年に権力が交代した。この交代については、数人の高官が関与した宮廷革命とする見方、退位を迫る圧力とする見方、父による戴冠にすぎないとする同時代の記述があり、少なくとも1112年まで共同統治したとする説もある。16歳で即位したとき、王国は1010年頃の最盛期から領土の大部分を失い、実効支配が及ぶのは限られた地域だけだった。1080年代からトゥルクマーンの襲撃が毎年のように続き、王国はセルジューク朝に貢納を強いられていた。ダヴィトの即位は救いの兆しとして歓迎され、同時代の年代記は彼を太陽にたとえている。
最初にダヴィトが取り組んだのは、トゥルクマーンの襲撃を終わらせることだった。士気の落ちた軍を立て直し、下級貴族と王領の農民からなる小部隊を何十も作って、入植地への奇襲を行った。短期間でセルジューク朝の侵入を食い止め、遊牧民をも攻撃した。やがて停戦が結ばれ、父の代に定められた貢納を払う代わりに襲撃を止めさせた。なお続く勢力は掃討され、住み着いた者は徐々に追放されて、元の住民が村に戻れるようになり、経済は復興して人口も増えた。国内が落ち着くと中央集権の強化に進んだ。1093年にクルデカリ公リパリト5世が陰謀を企てて投獄され、釈放後も陰謀をやめなかったため、1098年まで幽閉されたのちコンスタンティノープルへ永久に追放された。ほかの反抗的な貴族も厳しく罰して領地を王領に加え、高官を解任して中小貴族から選んだ忠実な顧問に入れ替えた。
貴族の力を削ぐと、ダヴィトは国家の統一をめざし、東部の奪回を必須とみて、カヘティ=ヘレティ王国に侵攻した。1104年には、イスラム教に改宗してセルジューク朝の臣下を名乗った新王アグサルタン2世を、不満を抱いた同国の貴族たちが失脚させて引き渡した。城塞は軍が近づくだけで降伏し、カヘティとヘレティはジョージア王国に統合された。これに反発するギャンジャのスルタンらとカヘティの貴族の連合軍とも1104年に衝突したが、ダヴィトは自ら兵を率い、新しい戦術で完全な勝利を収めた。年代記は、乗っていた馬が3頭死に、4頭目の馬に乗り換えたと伝える。この勝利で東端の国境は1010年頃の水準まで回復した。
1105年(1103年とする説もある)には、教会会議を開いて国内の体制改革に着手した。1118年にはキプチャクと同盟して北コーカサスの部族を服従させ、東ローマ帝国の影響から独立を宣言したことでも知られる。1121年のディドゴリの戦いでは、セルジューク朝のイスラム軍を決定的に破り、ジョージアの「黄金時代」の幕開けとなった。黒海からカスピ海に及ぶ王国を築き、ジョージア全土を統一した最初の君主となった。学術団体の設立も推進し、文化事業にも力を注いだ。
同じ年に亡くなった人物
- ヴラジスラフ1世 (1125年没)
- テオフィルス (1125年)
- アウラのエッケハルト (1125年)
- プラハのコスマス (1125年)
- インゲ2世 (スウェーデン王) (1125年)
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