伝記
呉承恩(ご しょうおん)は、中国、明代の官吏・文人である。1506年(正徳元年)頃に生まれ、1582年(万暦10年)頃に没したとされる。字は汝忠、号は射陽山人で、江蘇省淮安府山陽県の人である。生没年については1500年から1582年、あるいは1505年から1580年とする説もあり、一定しない。『西遊記』の作者とされる人物として名高いが、その確証はない。
父の呉鋭は浙江省杭州府仁和県で教諭を務めたのち、妻の徐氏の実家を継いで絹物商となったが、暮らしは豊かではなかった。父は教育を受け学問の素質を示しながら、家計の苦しさから職人として生涯を送ったとも伝えられる。いずれにせよ父は文学的な営みを続け、承恩も幼いころから古典や民間の物語、逸話に親しんだという。承恩は側室の張氏の子として生まれ、幼少から文才があると近隣に知られ、文章の代作をして収入を得ていた。
1544年(嘉靖23年)に歳貢生に選ばれ、北京の中央で官職を得ようと郷試を何度か受けたが、うまくいかなかった。1553年に長興県の県丞の職に就いたものの、誣告されたため、1年余りで「袖を払って帰った」という。以後は文章を売って生計を立て、故郷で詩文や物語を書いて過ごしたと考えられる。親しい友に、後七子の徐中行がいた。徐中行が進士となったときには、北京を訪ねている。政治の風潮や世の腐敗に不満を抱き、隠者のように暮らした期間が長かったともいわれる。生涯を通じて貧しく、子女もなく、80歳の高齢まで生きたという。
詩文は当時一流とされ、清の朱彝尊が編んだ『明詩綜』には7篇が収められている。『天啓淮安府志』は、性は敏く智慧が多く、博く書物を極め、筆を下ろせば清雅流麗な文を立ちどころに作り、秦観の風があり、また諧謔を善くして雑記を幾種も著し、一時その名を震わせたと述べる。著作には『射陽集』『春秋列伝序』『西遊記』が挙げられているが、これは呉承恩の没後の記録である。多くの著作があったというが、生家が貧しく子女もなかったため散逸した。怪奇小説集『禹鼎記』も名のみが伝わり、内容は失われた。その序には、自分の書は超自然のことだけでなく人間の弱さも描くものだと記したとされる。現在は後世に編まれた『射陽先生存稿』全4巻が残り、1958年には劉修業が『呉承恩詩文集』を編集・刊行した。
『西遊記』の作者という説は、明刊本の世徳堂本に付された陳元之の序(1592年)では作者不明とされていた。乾隆帝の時期に淮安出身の学者が承恩の顕彰を始め、呉玉搢『山陽志遺』、丁晏『石亭記事続編』、阮葵生『茶余客話』がその事蹟を記し、『西遊記』を承恩の作とした。魯迅や胡適はこれらをもとに承恩を作者と認め、中国本土では「最後の改訂をした作者」として広く知られる。一方、日本の太田辰夫は研究を深め、承恩に『西遊記』という著作があったとしても三蔵法師と孫悟空の物語ではないと論じ、中野美代子も作者説を採らない。中国でも1990年代以降、疑義が示され始めている。
日本でも1963年刊の太田辰夫・鳥居久靖訳の平凡社版は「呉承恩作」と明記し、小野忍訳の岩波文庫も留保付きでこれを踏襲した。だが太田は中国古典文学大系本以降、その表記を外している。この小説は1592年に作者名なしで刊行され、承恩は他の著作で触れていない。1625年の地方志は承恩が『西遊記』という書を著したと記すだけで、小説とは述べていないとの指摘もある。物語の多くは民間の伝承にすでにあり、どこまでが承恩の創作かも分からない。承恩は、作者として「最も可能性が高い人物」とされることがある。
同じ年に亡くなった人物
- アルタン・ハーン (1582年没)
- シャルロット・ド・ブルボン=ヴァンドーム (1582年没)
- Humasah Sultan (1582年没)
- ジョージ・ブキャナン (1582年)
- ルイ3世 (モンパンシエ公) (1582年没)
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