HISTORICAL PERSON · 178年(推定)没

アッリアノス

2世紀のローマのギリシア人政治家・歴史家。アレクサンドロス大王の東征研究の一級史料『アレクサンドロス東征記』の著者で、哲学者エピクテトスの教えも書き留めた。

生涯
178年(推定)没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

アッリアノスは、2世紀のローマ帝国に生きたギリシア人の政治家、歴史家である。正式にはルキウス・フラウィオス・アッリアノス・クセノフォンといい、アッリアーノスやアリアノスなどとも表記される。アレクサンドロス3世(大王)の東征を記した『アレクサンドロス東征記』の著者として知られる。生年ははっきりしないが、85年から90年のあいだとする見方があり、没年は178年と推定されている。

出身はビテュニアのニコメディアである。ローマ市民権をもって生まれ、その名からは、家がギリシア系の地方名望家で、市民権は数代前、ローマによる征服のころにさかのぼるのだろうと考えられている。エピルスのニコポリスで哲学者エピクテトスに学び、師の言葉を書き留めた『語録』と、教えを要約した『提要』を著した。エピクテトスの生涯について知られることは、アッリアノスの著作に負っている。のちにアテナイに移ると、師弟の関係がクセノフォンとソクラテスの関係に似ていることから、「若きクセノフォン」と呼ばれたという。

やがて有力者の知己を得て、ローマ帝国の官職や軍職に就いた。トラヤヌスのパルティア遠征に従軍したのではないかという説がある。ハドリアヌスが即位すると、ニグリヌスは皇位をうかがったかどで処刑されたが、アッリアノスは新帝に認められた。皇帝の友人となり、元老院議員にも取り立てられたとされる。125年頃にヒスパーニア・バエティカで属州総督を務めた可能性を示す祭壇碑文が見つかっている。129年ないし130年に執政官となり、130年、あるいは132年から、おそらく137年まで、属州カッパドキアの総督を務めた。

この任期中、アラニ人が侵攻してくるとの情報をつかみ、軍を向けて断念させた。歴史家カッシウス・ディオは、イベリアの王ファラスマネス2世がアラニ人をけしかけて近隣の地を襲わせ、カッパドキアにも及んだが、アラニ人は贈り物で説得されたうえ、総督アッリアノスを恐れたため事態は収まった、と記している。総督を辞したとき、あるいはそのしばらく後に公職から引退し、アテナイの市民権を得て同市に住んだ。「執政官級の高官にして哲学者」という評判を保ち、自らも「第二のクセノフォン」と称したとされる。

著作は哲学、歴史、地誌に及ぶ。『アレクサンドロス東征記』は全7巻で現存し、アレクサンドロス3世の伝記の原典のなかで最も信頼され、研究も多い。クセノフォンの『アナバシス』を下敷きにしたといわれ、遠征から四百年のあいだに記された記録を参照し、とりわけ従軍者のプトレマイオス1世に信をおいた。客観的な姿勢で知られる一方、関心は軍事が中心で、政治の記述は表面的である。大王を事業に駆り立てたのは神話の英雄へのライバル意識だったと説明している。『インド誌』も現存する。ほかに『黒海周航記』『アレクサンドロス没後史』『ビテュニア誌』『パルティア誌』『狩猟論』『戦術論』などがあるが、断片のみ伝わるものや失われたものが多い。『語録』は全8巻のうち前半4巻のみが現存し、師の講義の筆録が無断で広まったため公刊したと自ら述べたという。『黒海周航記』はハドリアヌス帝にあてた作品で、年代の確かな現存作品のなかでは最も古いとされる。『アラニ人に対する布陣』という著作もあり、『ディオン』『ティモレオン』も書いた。後にカッシウス・ディオが彼の伝記を書いたと伝えられるが、現存していない。

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