伝記
ルキウス・カッシウス・ディオ・コッケイアヌス、通称カッシウス・ディオは、ローマ帝国の政治家で歴史家である。生年は163年ごろとされ、155年や164年とする説もある。没年は229年以降で、234年か235年ごろに故郷で亡くなったとされる。ギリシア語ではディオン・カッシオスとも呼ばれる。
属州ビテュニアのニカイアに生まれ、父はギリシア系の元老院議員カッシウス・アポロニアヌス(マルクス・カッシウス・アプロニアヌスとも)である。東ローマ帝国の歴史家たちは、母方の縁者(叔父か祖父)に弁論家ディオン・クリュソストモスがいたと主張するが、疑う論者も少なくない。個人名はルキウスとされるが、1970年にマケドニアで出土した石碑にクラウディウスを思わせる頭文字が刻まれており、フルネームをルキウス・クラウディウス・カッシウス・ディオとする説がある。ディオ家はローマ市民権をもち、名門のカッシウス氏族に属する上流貴族だったが、出自はローマ化されていない東方属州のヘレニズム世界にあった。『ローマ史』が一貫してラテン語でなくギリシア語で書かれていること、彼自身がヘレニズム文化への愛着を表したことにそれが表れている。議会のために暮らすローマを「我が別荘」と呼び、ニカイアを「我が家」と呼んだという。
若い頃はニカイアの弁論家に学び、さらにペルガモン、ローマで学んで法律を修め、弁護士になったと考えられている。188年に財務官、194年か195年にセプティミウス・セウェルス帝のもとで法務官を務めた。最初の著作『夢と予兆について』を皇帝に送り、新帝の即位が予兆されていたと示して好意を得、続いて内乱の記録を皇帝に献じた。コンモドゥス帝の時代に議会へ加わったともいい、皇帝の友として妃ユリア・ドムナの文人の集まりにも出入りした。セウェルス帝の死後にはスミルナ市の長官を務めた。205年に補充執政官に選ばれ、アフリカ属州とパンノニアの総督を歴任して、一旦公職を離れたとみられる。
222年にアレクサンデル・セウェルス帝が即位すると、16年ぶりに職務に戻り、アフリカ総督となり、続いて223年から225年にダルマティア、225年から229年に上パンノニアで軍の反乱の鎮圧に当たった。帝には才覚を高く評価されて側近に取り立てられ、229年には帝自身とともに執政官に任じられた。生来の皮肉屋で辛辣な性格は近衛隊の反感を買ったが、帝は彼を重用した。晩年はローマからニカイアに戻り、そこで病没した。
主著の『ローマ史』は80巻からなり、アエネアスのイタリア上陸からアレクサンデル・セウェルス帝の時代までの約1400年をたどる。執筆には22年を要したといわれ、10年ほどの資料集めが先立ったとも伝わる。207年ごろ、神が歴史を書くよう励ます夢を見て着手したとする説もある。トゥキディデスを手本としたが、共和政期は重要な出来事に絞り、本格的な記述は帝政期から始まる。同時代の帝政中期は特に詳しく、皇帝たちに直接接した立場から書かれた貴重な史料であり、ブーディカの乱やセイヤヌスの粛清の数少ない記録でもある。現存するのは、第37巻から第54巻、第56巻から第60巻がほぼ完全な形で、最初の36巻は断片のみ、第61巻以降は11世紀の修道士クシフィリノスの要約を通じて伝わる。この要約は原著に比べてかなり劣る内容とされる。ラテン語の用語が頻出する点も彼のギリシア語の特徴である。
同じ年に亡くなった人物
- ユリア・アウィタ (235年没)
- クァルティヌス (235年)
- ヒッポリュトス (対立教皇) (235年没)
- ポンティアヌス (ローマ教皇) (235年)
- アレクサンデル・セウェルス (235年没)
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