HISTORICAL PERSON · 350年没

ミラのニコラオス

小アジアのミラで大主教を務めた4世紀の聖職者。1087年に聖遺物がバーリへ移された。全教派で聖人として崇敬され、正教会でも篤く敬われる。

生涯
350年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

ミラのニコラオスは、270年頃に生まれ、345年または352年12月6日に没したとされるキリスト教の主教(司教)であり神学者である。小アジアのローマ帝国リュキア属州のパタラの町に生まれ、リュキアのミラで大主教をつとめた。1087年にイタリアのバーリへ聖遺物(不朽体)が移されたことから、バーリのニコラウスとも呼ばれる。聖人の概念を持つすべての教派で崇敬され、正教会では「ミラ・リキヤの大主教奇蹟者聖ニコライ」の称号で呼ばれる。

その生涯は早くから伝説化され、イコンにもたびたび描かれてきた。大部の神学的著作は残っていないものの、正教会ではキリスト教的生活を体現した人物として篤く崇敬される。以下は歴史的事実ではなく、正教会が伝える聖伝の概略である。ニコラオスの徳行の基を見いだした叔父のパタラの主教(甥と同名)が、両親を説いて幼い頃から教会に仕えさせたという。司祭であったころ、財産を失って娘を売春させるほかなくなった元豪商の家へ、夜中に窓(煙突からともいう)から二度、多額の金をひそかに投げ入れた。おかげで娘たちは持参金を得て正式に結婚できた。父親が見張っていると三度目に投げ入れるニコラオスを見つけ、足もとにひれ伏して涙ながらに感謝したという。エルサレムへ海路で巡礼した際には、暴風を鎮め、船から落ちて死んだ水夫を甦らせたとも伝えられる。

巡礼の後に修道士となったが、ちょうどミラの大主教ヨハネスが亡くなり、後継者を探していた人々に、ニコラオスを選ぶようにという天使のお告げがあった。いったんは辞退したものの、主の意に逆らえず大主教となった。ますます勤勉に働き、優れた二人の司祭を同労者に選び、父のように人々を愛し、人々の嘆願や訴えを聞き、冤罪や侮辱を受けた者のために弁護した。やがてディオクレティアヌス帝とガレリウス帝による大迫害が起こったが、恐れずに伝道を続けて捕えられ、獄中で共に捕らわれた囚人たちを励ました。コンスタンティヌス帝の即位で迫害が止むと、大主教に復職した。第1回ニカイア公会議では議論に激してアリウスを殴り破門されたが、キリストと神の母マリアが幻に現れて潔白を証したため、破門は解かれたという。

反乱鎮圧の軍隊がフリギアで略奪を働いたときは、現場へ行って三人の将軍にかけあい、暴行を鎮めた。そこへミラから、大主教の不在中に悪い市長が三人の善良な市民を処刑しようとしているとの急報が届いた。ニコラオスは将軍たちとともに急ぎ戻り、処刑の寸前の刑場で処刑人から剣を奪い、市民の縄を解いた。のちに三将軍が謀反の濡れ衣で投獄されると、その一人がニコラオスを思い起こして祈り、ニコラオスが皇帝の夢に現れて三人の無実を訴えた。三人は赦され、皇帝はミラの教会に多大な贈り物をしたという。

老いて安らかに亡くなると、遺体はミラの堂に葬られた。不朽体からは芳膏が湧き、多くの信者の病が癒されたといい、死後すぐに評判が広まって記念の聖堂が建てられた。11世紀後半にミラがセルジューク朝に征服された混乱のなか、バーリから来ていた船乗りたちが不朽体を持ち去り、1087年5月9日にバーリのサン・ニコラ教会に安置された。以後そこは巡礼地となり、5月9日は正教会で不朽体移動日として記念される。ニコラオスは海運や子供の守護聖人とされ、西方教会では無実の罪に苦しむ人の守護聖人ともされる。オランダなどではシンタクラースと呼ばれ、12月6日の祭に向けて贈り物を交わす習わしがあり、靴下に贈り物を入れる流儀は、娘たちに金を投げ入れた伝承から発展してサンタクロースの起源になったとする説がある。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物

該当人物はまだありません。