HISTORICAL PERSON · 380年没

サムドラグプタ

グプタ朝の第2代君主。ガンジス川中流域を拠点に版図を北インドへ広げた。アラーハーバードの石柱の碑文に、その遠征と即位の経緯が刻まれている。

生涯
380年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

サムドラグプタは、古代インドのグプタ朝の第2代君主である。在位は335年頃または350年頃から375年頃とされ、生没年は確定しておらず、318年から375年とする説もある。ガンジス川中流域を拠点に北インドへ版図を広げ、経済や文化の面でも繁栄をもたらした。

父はグプタ朝の創始者チャンドラグプタ1世、母は名家リッチャヴィ家の娘クマーラデーヴィーである。アラーハーバード碑文には、父が多くの子の中からサムドラグプタを後継者に指名したことが記されている。エーラン碑文の断片も、父が「献身、正しい行い、武勇」を理由に選んだと述べる。碑文は、指名の際に「同じ生まれ」の人々の顔に憂いの色が浮かんだとも記す。これを近隣の王とみて即位は争いなく進んだとする解釈もあれば、王位を争うグプタ家の王子たちとみる説もあり、治世初期に他の兄弟の反乱に直面したと推測する意見もある。リッチャヴィ家の血を引くことが有利に働いたとも考えられている。また、カーチャという王の貨幣はサムドラグプタの貨幣によく似ており、カーチャはサムドラグプタの以前の名だったとする説と、別の王だったとする説がある。

治世は、北インドへの迅速な遠征とその成功で始まった。即位当時のグプタ朝はビハール北部とベンガル北西部を支配しており、サムドラグプタは父の遺言に従い、ヒンドゥー教の政治理想であるディグヴィジャヤ(世界征服)を開始した。これによりベンガル、マトゥラー、エーランに至る領域が支配下に組み込まれた。続いて南方へ向かい、ベンガル湾沿いに進み、デカン高原東部を経て、現在のタミル・ナードゥ州にあるカーンチプラムにまで達したと推測される。ただし南方では直接支配を築かず、捕えた王を復位させ、宗主として間接的に支配した。このためマウリヤ朝がアショーカ王の死後まもなく分裂したのとは違い、グプタ朝はサムドラグプタの死後も支配を保てた。碑文は、打ち破った勢力を、領地を併合された諸侯、ガンジス川流域の独立政権、貢納を誓った諸侯、臣従した辺境の王や族長、使節を送って権威を認めた遠方の王に分けている。最後の例には、サカ人の王国やクシャーナ朝が挙げられる。

サムドラグプタは「大王のなかの統王」「最高の帝王」といった称号を用い、神格化された君主として振る舞った。365年頃には、ヒンドゥー教の大供犠であるアシュヴァメーダ(馬祠祭)を行った。重さ約7.97グラム、金の含有量87%の貨幣も鋳造され、馬祠祭を行う姿を刻んだものや、ヴィーナを演奏する姿を刻んだものがある。学問、詩文、音楽の保護者で、自ら作詩をたしなみ、音楽家としても優れた才能を示した。宮廷には多くの詩人や学者が集まった。建設事業も多く行ったと伝えられるが、現存する建物は確認されていない。ヒンドゥー教を好んだ一方、他宗教にも寛容で、仏教の盛んなセイロンの王が、ブッダガヤへの巡礼者のための施設を建てることを認めた。

アショーカ王が建てたアラーハーバードの石柱には、サンスクリットの碑文が追刻された。家系、即位の過程、在位中の軍事遠征が記され、グプタ朝に仕える詩人ハリシェーナが捧げた頌徳文である。簡潔なパーリ語で平和と正義を称えたアショーカ王の碑文と違い、戦いでの勝利を優雅なサンスクリットで称えている。裏付けを欠く箇所もありすべてを史実とするのは難しいが、4世紀の南アジアの政治情勢とグプタ朝の支配制度がうかがえ、文学としても高く評価される。

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