伝記
サラミスのエピファニオスは、4世紀末にキプロス島のサラミスで主教を務めた聖職者である。403年に没した。東方正教会とカトリック教会で聖人かつ教父とされ、一部の長老派教会でも同様に敬われる。正統信仰の強力な擁護者として名を知られ、八十の異端を集成した『パナリオン』の著者として最もよく知られている。この書には異教の宗教や哲学の体系も含まれていた。
出身はエレウテロポリス(現在のイスラエルのベイト・グブリン)近郊の小さな集落ベサンドゥクとされる。キリスト教徒の家に生まれたとも、若いころに改宗したともいわれる。エジプトで修道士として暮らしてそこで教育を受け、ウァレンティノス派の集団とも接したという。333年ごろ、まだ若いうちにローマ領パレスチナに戻り、エレウテロポリス近くのアドに修道院を創設した。司祭に叙階され、この修道院の院長として約30年にわたって暮らしながら学び、多くの知識と技量を得た。ヘブライ語、シリア語、エジプト語、ギリシア語、ラテン語を操ったことから、ヒエロニムスに「五つの舌をもつ者」と呼ばれた。同時代には、ガザ近くの荒野に隠遁してパレスチナの修道生活の創始者とされるヒラリオンや、ユダヤの荒野の修道生活の創始者カリトンがいた。
学識の評判によって、365年か367年にキプロスのサラミスの主教に推されて叙階され、死ぬまでその職にあった。キプロス教会の首都大主教でもあった。在職は40年近くに及び、異なる信仰と戦うために各地を広く旅した。376年にはアンティオキアの教会会議に出席し、アポリナリオス派の異端との関係で三位一体の問題が論じられた。ここでは、東方の教会が支持したアンティオキアのメレティオスではなく、ローマの支持を得ていた主教パウリヌスの立場を擁護した。382年のローマ教会会議にも出席し、やはりパウリヌスの側に立った。
394年か395年にパレスチナを訪れた際、エルサレムで説教しながらオリゲネスの信奉者を攻撃し、エルサレム主教ヨハネス2世にその著作を断罪するよう迫った。また教会内の聖像による「つまずき」に注意するよう促した。旅の途中、祈るために入った教会で、キリストか聖人の像を描いた垂れ幕を見つけて引き裂いたこと、そうした像は「我々の宗教に反する」とヨハネスに告げたことを自ら語っている。この垂れ幕の出来事は、後世の聖像破壊派が彼のものとして引用した文章の多くと異なり、近代の研究者も本物と認めている。この事件が、ルフィヌスとヨハネスの側と、ヒエロニムスとエピファニオスの側の争いの火種になったとされる。彼がヒエロニムスのベツレヘムの修道院のために司祭を叙階し、ヨハネスの管轄を侵したことも対立を深めた。
399年、当初ヨハネスを支持していたアレクサンドリア主教テオフィロスが態度を変え、エジプトのオリゲネス派修道士を迫害し始めた。「背の高い兄弟たち」と呼ばれる4人の修道士がパレスチナからコンスタンティノポリスへ逃れると、主教ヨハネス・クリュソストモスが彼らをかくまった。敵対していたテオフィロスは、これを機にクリュソストモスを倒そうと考え、402年にコンスタンティノポリスで会議を招集し、反オリゲネス派に参加を求めた。80歳近かったエピファニオスも招かれて旅に出たが、自分がクリュソストモスに対する道具にされていると悟ると、サラミスへ引き返し、帰る途中の403年に没した。
同じ年に亡くなった人物
- オリバシウス (403年没)
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