HISTORICAL PERSON · 653年没

アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブ

ムハンマドの叔父。彼の子孫のアッバース家は8世紀にウマイヤ朝を倒し、アッバース朝の名も彼にちなむ。

生涯
653年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブは、イスラーム教の開祖ムハンマドの叔父にあたる人物である。566年頃にメッカで生まれ、653年頃にメディナで没したとされる。クンヤ(通称)はアブー・ファドルという。のちに8世紀中葉にウマイヤ朝を倒して支配権を握ったアッバース家は彼の子孫であり、「アッバース朝」という呼び名も彼の名に由来する。そのため、アッバース朝期の歴史家は彼を称揚して書く傾向があり、どこまでが史実でどこからが虚構かを見分けにくいと、歴史家のモンゴメリー・ワットは指摘している。

父はムハンマドの祖父でもあるアブドゥルムッタリブ、母はナミル部族のジャナーブの娘ヌタイラである。したがって、ムハンマドの父アブドゥッラーやアブー・ターリブとは異母兄弟にあたる。ムハンマドより二、三歳年長で、共に育ったという。若くして商業や金融に携わり、香料貿易で成功した。アブー・ターリブへの借金を帳消しにする代わりに、メッカへ巡礼に来た人々にザムザムの井戸の水を提供する権利を得たとされ、巡礼者への食料提供の役目も担ったという説がある。アブド・シャムス部族やマフズーム部族の長ほどの富はなかったものの、ターイフに庭園を持つほど裕福であった。また、アブー・ターリブが経済的に苦しかったとき、アッバースは甥のジャアファルを引き取り、ムハンマドはアリーを自分の家に迎えたという伝承もある。

イスラームに入った時期については伝承が分かれる。早くに改宗したが信仰を隠し、メッカにとどまってムスリムを助け、クライシュ族の動向をムハンマドに知らせたとする伝承がある一方、バドルの戦いの頃、あるいはメッカ征服の直前とする説もあり、後者のほうが広く受け入れられているともいう。ワットは早期の支援を語る話に懐疑的で、629年にムハンマドがアッバースの妻ルバーバの全血妹マイムーナと結婚する以前に、両者の関係が良好だったと示す確かな証拠はないとする。この結婚は、アッバースが甥との関係を修復するために設けたものと推測されている。聖遷直前の622年、ヤスリブのムスリムとの会談でアッバースが甥を守るよう求めたという話も伝わるが、ワットはその信頼性を疑っている。

624年のバドルの戦いでは、メッカ軍の一員としてムスリム軍と戦って捕虜となり、のちに解放された。身代金が支払われたかどうかは、後世に大きな論争となった。630年のメッカ開城ではムハンマドに従って入城し、ムハンマドはザムザム井の水供給の権利を、引き続きアッバースとその一族に認めた。フナインの戦いでは勇敢に戦い、その大音声がムスリム軍に有利な流れをもたらしたと、アッバース朝寄りの歴史家は記している。その後はメディナに移り住んだ。ワットは、改宗の影響はアブー・スフヤーンのそれより小さかったと見ている。

ムハンマドの死後はアブー・バクル、ウマル、ウスマーンの各カリフの時代を通じて敬意を受けたが、共同体を指導する地位は与えられなかった。シリア方面への遠征に加わったという説もあるが疑わしく、おそらく赴いていないとされる。ウマルとは仲が悪かったものの、ウマルの家の増築に際して贈り物をし、またウマルは、ムハンマドから約束されたと言われるハイバル・オアシスの物産を原資とする生活保障を受けていたアッバースについて、古参ムスリムの生活保障を見直す際に、アッバースをバドルの戦いの参戦者と同格に扱った。ヒジュラ暦32年頃に没し、享年は88歳前後とされる。子は13人で、カリフを出したアッバース家は息子アブドゥッラーの系統である。

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