伝記
オレグは、10世紀初めにルーシの一部または全部を支配したヴァリャーグの公(または王)である。生年は不詳で、没年は912年とも922年ともいわれる。ルーシの都をノヴゴロドからキーウに移し、キーウ・ルーシの礎を築いた人物とされ、東ローマ帝国の都コンスタンティノポリスを少なくとも一度は襲撃した。
『原初年代記』によれば、オレグはヴァリャーグの出で、リューリクの親族、あるいは同盟者であった。リューリクの死に際して、その王国と幼い子イーゴリの世話を任され、879年にノヴゴロドの統治者になったという。881年から882年にかけてスモレンスクを押さえ、さらにドニエプル川を下ってキーウに至り、アスコルドとジールを欺いて殺害し、そこに公として座った。これが一般にキーウ・ルーシの建国とみなされ、「ヴァリャーギからギリシアへの道」が完成したとされる。ただし『原初年代記』は、オレグを最初のキーウ公としても、まだ大公とは呼んでいない。後のモスクワの年代記者が大公と呼んだにすぎず、古い史料には大公の呼称は見られないという。883年にはデレヴリャーネ族に貢納を課した。
907年、オレグはコンスタンティノポリスを襲撃して東ローマ皇帝から譲歩を引き出し、907年から911年にかけて通商条約のルーシ・ビザンツ条約を結ばせたと伝えられる。東ローマ側が毒入りのワインでオレグを殺そうとしたが、神託の力でそれを見破ったという話も残る。一方、ある歴史家は、この遠征はトラキア沿岸を略奪した襲撃者が敗れたものにすぎず、条約は蛮族への「贈り物」で、年代記は敗北を大勝利に仕立てたと論じる。別の歴史家は、条約は遠征の経緯にかかわらずルーシに有利だったと考える。また年代記は、オレグが当時の宿敵ハザールとも絶えず戦ったと描き、ハザールの経済網は破壊されて10世紀を通じて衰えたとされる。
『原初年代記』でオレグは「予言者」と呼ばれ、これは「司祭」を意味する彼の北欧風の名に通じるとされる。死についても、有名な伝承がある。部族の司祭たちが、オレグは愛馬のせいで死ぬと予言した。彼は馬をよそへ送り出したが、何年かのち、馬が死んだと知らされた。遺骸を見に行ったオレグは、笑いながら「どうして死んだ馬が私を殺せるのか」と言って頭蓋骨を足で蹴ると、中から蛇が飛び出して彼を噛み、予言は的中したという。この話は後にプーシキンの詩に詠まれた。同様の話はスカンディナヴィアの伝説やイングランドの物語にも見られる。死因については、キリスト教を受け入れて土着の司祭と対立し毒殺されたとする説や、ハザールに毒殺されたとする説もある。墓は、キーウの年代記ではキーウに、ノヴゴロド系の史料ではラドガにあるとされる。
オレグの実像には、なお疑問が多い。第一ノヴゴロド年代記は、オレグをリューリクの親族ではなく、イーゴリの軍の指揮官を務めたスカンディナヴィア出身の従属的な公とし、没年を922年とする。研究者は、『原初年代記』がオレグとイーゴリにそれぞれ約33年という叙事詩的な治世を与えている点を、この年代の置き方と比べてきた。さらに、ハザール系ユダヤ人が書いたシェヒター書簡には、940年代にヘルグと転写される名のルーシの将軍が現れる。この人物をオレグと解する見方があり、近年はデヴィッド・クリスチャンやコンスタンティン・ズッカーマンらが、他のルーシの年代記とも合致するとして、初期ルーシ内でオレグ派とイーゴリ派が争い、オレグ派が敗れたと論じている。
同じ年に亡くなった人物
- クスター・イブン・ルーカー (912年)
- イブン・ルスタ (912年)
- ルドルフ1世 (ブルグント王) (912年没)
- レオーン6世 (912年没)
- ノトケル・バルブルス (912年)
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