伝記
クレイステネスは、古代アテナイの政治家で、民主政の基礎を築いたことから「アテナイ民主政の父」と呼ばれる。名門アルクメオン家の貴族であり、紀元前6世紀後半から紀元前5世紀前半にかけて生きた。紀元前570年ごろの生まれとする推定もある。父はアテナイの貴族メガクレス、母はシキュオンの僭主クレイステネスの娘アガリステで、次男にあたる。古代ギリシアでは祖父の名を孫につけることがよくあった。のちのペリクレスの母アガリステの叔父であり、アルキビアデスの母方の祖父メガクレスの叔父でもある。祖父が僭主であったのに対し、彼は民主的な考えをとった。
アテナイでペイシストラトスが僭主となると、政敵とアルクメオン家は追放された。紀元前527年にペイシストラトスが死ぬと、クレイステネスはアテナイに戻り、名祖アルコンになった。数年後、後継者のヒッパルコスとヒッピアスによって再び追放された。紀元前514年にハルモディオスとアリストゲイトンがヒッパルコスを暗殺すると、ヒッピアスは市民への態度をいっそう硬化させた。そこでクレイステネスはデルフォイの神託に働きかけ、スパルタの助けでアテナイを僭主政から解放しようとした。アルクメオン家が火災で壊れた神域の再建を助けたことがあったため、この願いは受け入れられたという。紀元前510年、スパルタの援助とアルクメオン家の力で僭主ヒッピアスは追放された。
その後、クレイステネスはイサゴラスと権力を争った。イサゴラスはスパルタ王クレオメネス1世の助けを求め、アルクメオン家の呪いを口実にクレイステネスを追放させた。イサゴラスは数百の家を財産ごと奪って追い出し、市民からなる評議会(ブーレー)の解散も図った。しかし評議会は抵抗し、市民もこれを支持した。イサゴラスと支持者はアクロポリスに逃げ込み、2日間包囲され、3日目に市外へ逃れて追放された。クレイステネスは数百人の亡命者とともに呼び戻されて、アテナイの指導者となった。彼はまず、僭主を討ったハルモディオスとアリストゲイトンの青銅像を彫刻家アンテノルに注文した。クレオメネスは紀元前508年と506年にも介入したが、クレイステネスと市民の支持者を止められなかった。
指導者となった彼は、紀元前508年に政治の改革を始めた。僭主政を招いた氏族間の争いを防ぐため、血縁に基づく旧来の4部族制を廃し、居住地に基づく10部族制にあらためた。これが、デーモス(区)を基礎とする新しい民主的な権力構造の土台となった。デーモスは139あったとされるが議論がある。各部族は、市域・海岸部・内陸部の三つの地域からなるトリッテュスを組み合わせて作られた。この仕組みは、政敵の勢力を分断して弱める効果もあったという。父の名で呼ぶ習慣は、所属するデーモスの名で呼ぶ習慣に改められ、市民のデーモスへの帰属意識が高まった。これらの改革は、裕福な外国出身の男性を市民社会に迎え入れる働きもした。デーモスを基礎に五百人評議会が置かれ、将軍職(ストラテゴス)が定められた。親族や世襲でなく、市民をくじで選んで役職に就ける方法も導入したとされる。市民の集会の力を高め、貴族の影響力を抑えたとされ、僭主の出現を阻むためにオストラシズム(陶片追放)の制度も創設した。
こうして全市民に平等な権利を与える仕組みが整えられたが、ここでいう市民は自由人に限られた。彼の改革は、アテナイ民主政の基礎を確立したと評価されている。没年は分かっておらず、紀元前5世紀前半とされるにとどまる。
同じ年に亡くなった人物
- クロトンのアルクマイオン (紀元前 500年(推定))
- エウリュビアデス (紀元前500)
- クリトン (アテナイ人) (紀元前 500年(推定))
- エウテュミデス (紀元前500)
- アルテミシア (紀元前500)
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