伝記
老子は、中国の春秋時代の哲学者とされる人物である。諸子百家のうち道家は彼の思想を基礎とし、後に生まれた道教は彼を始祖に置く。「老子」という呼び名は「偉大な人物」を意味する尊称と考えられている。書物『老子』(別名『老子道徳経』)を書いたとされるが、経歴には不明な点が多く、実在が疑われたり、生きた時代をめぐって激しい議論が行われたりしている。
最も古い伝記は、司馬遷が紀元前100年ごろに著した『史記』の「老子韓非列伝」にあり、三つの話がまとめられている。第一の話では、姓は李、名は耳、字は聃(または伯陽)で、楚の苦県の出身、周の書庫の記録官を務めていたという。孔子が礼の教えを受けに訪ねたとされ、孔子と同時代の人になる。道徳を修め、名が知られることを避けていたが、周の衰えを悟って去ることを決めた。国境の関所に着くと、役人の尹喜に教えを書き残すよう請われ、これに応じて上下2篇、約5000語の書を著したとされる。老子はそのまま去り、その後のことは誰も知らないという。『列仙伝』では大秦国、すなわちローマへ向かったと伝わる。第二の話は、孔子と同時代の楚の老萊子が15章の書を著したというもので、第三の話は、秦の献公の時代に生きた周の太史儋を老子とみるものである。司馬遷自身もこれらを断定しておらず、すでにこの時代に老子の経歴は謎に包まれていたことがうかがえる。
『史記』は子孫にも触れ、子は宗といって魏の将校となり、段干に封じられたと記す。この系譜から1代を30年として逆算し、老子を紀元前400年前後の人物とする学者もいるが、疑問視する意見もある。『荘子』には老聃という人物が登場し、『荀子』や『呂氏春秋』にも老子の思想に触れる記述があることから、老子に仮託される思想は遅くとも戦国時代末期には知られていた可能性が高い。ただし、それだけで生きた時代を定めることはできず、学会でも結論は出ていない。老子の存在に疑問を呈した初期の思想家は北魏の宰相、崔浩だったとされる。唐の韓愈は孔子が老子から教えを受けたという説を否定し、清代の汪中と崔述は、第三の説の太史儋こそが老子を正しく伝える孔子より後の人物だと主張した。さらに、道家学派の形成後にその祖として虚構された架空の人物だとする説もある。20世紀にも、孔子とほぼ同時代の春秋末期とする早期説と、戦国末期とする晩期説が対立した。
民間の伝承では、老子は周の定王3年(紀元前603年)に母が流星を見て身ごもり、62年間も胎内にいたのち、左の脇から生まれたとされる。そのため生まれながらに白髪混じりの顎鬚と長い耳たぶを持つ大人の姿だったという。ほかにも、伏羲の時代から13度生まれ変わったという話や、インドへ向かって仏陀に教えを説いた、あるいは自ら仏陀となったという化胡説がある。晩年の伝承では、都市の道徳の低下にうんざりして160歳のとき西方へ移り、紫雲がたなびくのに気づいた尹喜に迎えられて『老子道徳経』を書いたとされる。尹喜は『荘子』に見える関尹と同一人物ではないかという説もある。
老子を仙人視する風潮は前漢時代に起こり、王充は『論衡』で不老不死説を否定した。後世、貴族から平民まで老子の血筋を主張する者は多く、李氏の多くが末裔を称した。唐の帝室の李氏も祖先を老子に求め、「聖祖大道玄元皇帝」とおくり名した。道教のほとんどの宗派では、老子は神として崇拝され、三清の一人である太上老君の神名を持つ。
同じ年に亡くなった人物
- Hermippus (紀元前500)
- ベトリア (紀元前 500年(推定))
- スダッタ (紀元前 500年(推定))
- エウテュミデス (紀元前500)
- ヒュダルネス (貴族) (紀元前 500年(推定))
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