伝記
アウルス・ポストゥミウス・アルビヌスは、共和政ローマの政治家、軍人で、紀元前九十九年の執政官である。貴族のポストゥミウス氏族に属した。同氏族は共和政の初期から有力で、紀元前五百五年にはプブリウス・ポストゥミウス・トゥベルトゥスが執政官となり、以後も多くの執政官を出した。しかし、アルビヌス本人の父と祖父の個人名は不明である。紀元前百十年の執政官スプリウス・ポストゥミウス・アルビヌスの弟にあたる前法務官の子とも、その甥とも考えられている。前法務官はユグルタ戦争でローマ軍が敗れた際の責任者で、敗戦後に追放された可能性がある。この前法務官と後の執政官を同一人とする説もあるが、支持は少ない。
執政官への就任時期と、官職に就く間隔を定めたウィッリウス法から、遅くとも紀元前百二年には法務官を務めていたと推定される。経歴が具体的に明らかになるのは、紀元前百年末に行われた翌年の執政官選挙である。候補者はアルビヌスのほか、マルクス・アントニウス・オラトル、ガイウス・セルウィリウス・グラウキア、ガイウス・メンミウスの四人であった。アントニウスの当選が早く決まり、残る一つの席を三人で争う形になった。ところが、投票の前日にグラウキアの立候補資格が否定された。その年の法務官を務めており、高位官職の間に三年を置くという規定に反していたためである。
さらに投票日の朝、メンミウスが殺害された。元老院はグラウキアが殺人に関与したと非難し、その同盟者であった護民官ルキウス・アップレイウス・サトゥルニヌスを排除するためにも、この事件を利用しようとした。こうした混乱の中で、アルビヌスは執政官に選出された。殺害を指図したのは、実はアルビヌスだったという説もある。メンミウスは選挙の競争相手であっただけでなく、以前にユグルタ戦争に関連して、アルビヌスの親族スプリウスを告訴した人物でもあった。ただし、これらは動機として考えられる事情であり、本人が殺害を指示したことが確定しているわけではない。
紀元前九十九年の執政官在任中には、ヌマの宮殿で神聖な品を収める場所に置かれていたマルスの槍が、ひとりでに動き出したという不吉な兆しが伝わる。このため両執政官は、神々に追加の生け贄を捧げる措置を取った。同年には、サトゥルニヌスと対立して追放されていたクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ヌミディクスを帰還させようとする動きもあった。しかし、アルビヌスが帰還運動にどう関わったかはわからず、生け贄に関する措置以外の政績も明らかではない。
紀元前八十九年、同盟市戦争中のポンペイ包囲戦で、同名の副司令官が兵士たちに撲殺された。この人物が紀元前九十九年の執政官であった可能性がある。殺害の理由には反逆の疑いや、耐え難いほどの傲慢さが挙げられる。部隊はその後ルキウス・コルネリウス・スッラの指揮下に置かれたが、スッラは責任者を処罰しなかった。兵士たちが罪を勇敢な戦いで償おうとして、いっそう奮戦すると考えたためだという。殺された副司令官を元法務官とする伝承と、元執政官とする伝承があり、後者が正しければ、このアルビヌスと同一人物であったことになる。
同じ年に亡くなった人物
- マニウス・アクィッリウス (紀元前101年の執政官) (紀元前88年没)
- クィントゥス・ポンペイウス・ルフス (紀元前88年没)
- プトレマイオス10世 (紀元前88年没)
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