伝記
エドモンド・ハレーは、イギリスの科学者で、天文学、地球物理学、数学、気象学、物理学など広い分野に業績を残した。ユリウス暦1656年10月29日(グレゴリオ暦11月8日)に、当時のミドルセックス州ハックニーで、裕福な石鹸製造業者の子として生まれた。誕生日は確かでなく、本人は別の日と考えていたという。母はアン・ロビンソンで、父は息子の教育に惜しまず金を出した。10歳頃の1664年と1665年に現れた大彗星が、彼を天文学や彗星に向かわせたと推測されている。セント・ポール校で学び、1673年にオックスフォード大学クイーンズ・カレッジに入ったが、まもなく母を亡くした。在学中に太陽系と太陽黒点に関する論文を発表し、王室天文官フラムスティードに木星と土星の位置表の誤りを手紙で指摘して、19歳で最初の論文を学術誌に載せた。
1676年に学位を取らないまま大学を離れ、南半球の星を調べるために南大西洋のセントヘレナ島へ渡り、1678年11月まで観測した。国王チャールズ2世や王立協会の支援を受けた渡航である。1679年に341個の南天の恒星を記録した『南天星表』を出し、この業績はティコ・ブラーエの観測に匹敵すると高く評価され、修士号を得て、王立協会のフェローに推された。島では緯度による振り子時計の周期の変化や、水星の日面通過の観測も行い、金星の日面通過から地球と太陽の距離を求める方法を発表した。1682年に結婚してイズリントンに住み、月の観測に励みながら重力の問題に関心を持った。1684年8月にケンブリッジのニュートンを訪ね、惑星運動の法則の証明を論じ、すでに証明していながら未発表であると知った。ハレーが公表を強く促したことが、『プリンキピア』執筆のきっかけとなり、出版の約束を果たせなくなった王立協会に代わって、費用も自ら負担した。
1686年には貿易風とモンスーンに関する論文と地図を発表し、太陽熱が大気運動の主因だと指摘した。気圧と海抜高度の関係も初めて明らかにした。1693年には終身年金の論文を書き、死亡記録が詳しいヴロツワフの記録から死亡年齢を統計的に解析した。この生命表は保険数理学の発展に影響し、人口統計学の歴史でも重要とされる。1689年には潜水鐘を考案し、窓を設け、重りをつけた樽で空気を送る仕組みで、数人で1時間半以上も水中にとどまった。1698年にはパラモア号の艦長となったが、士官たちが民間人の命令を拒んだため、最初の航海は7か月で引き返し、改めて出航した。約2年の航海で大西洋の磁気偏角を調べ、1701年に等偏角線を描いた世界初の地磁気図を発表した。
1703年にオックスフォード大学のサヴィル幾何学教授となり、1705年には『彗星天文学概論』で、1456年、1531年、1607年、1682年の彗星は同一の天体であり、次の回帰は1758年と予言した。予言は的中し、この彗星はハレー彗星と呼ばれた。1716年に金星の日面通過を使って天文単位を測る方法を提案し、1718年には恒星の固有運動を発見した。1720年にフラムスティードの後任として王室天文官となり、生涯その職にあった。1742年1月に85歳で没し、リーの聖マーガレット教会に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- フリードリッヒ・ホフマン (1742年)
- Lars Roberg (1742年)
- アルヴィド・ホルン (1742年没)
- Frederic Louis Norden (1742年)
- マグダレーナ・ヴィルヘルミーネ・フォン・ヴュルテンベルク (1742年没)
同じ地域に関係する人物
- ヘンリー・オルデンバーグ (1677年没)
- ウィレム・ファン・デ・フェルデ (子) (1707年没)
- ネヴィル・マスケリン (1811年没)
- トマス・ボーフォート (エクセター公) (1426年没)
- ウィレム・ファン・デ・フェルデ (父) (1693年没)