伝記
フェリペ5世は、スペイン・ブルボン朝の初代国王(在位1700年から1724年、1724年から1746年)である。1683年12月19日にヴェルサイユ宮殿で、フランス王子ルイ(ルイ14世の長男)の次男として生まれ、アンジュー公位を授けられた。母はバイエルン選帝侯の娘マリー・アンヌ・ド・バヴィエールである。父方の祖母マリー・テレーズがスペイン王カルロス2世の異母姉にあたることから、スペイン王家の血を色濃く引いていた。
子のなかったカルロス2世は、はじめバイエルン選帝侯の息子ヨーゼフ・フェルディナントを後継者に指名したが、彼は1699年に早世した。ルイ14世はこれを好機として、孫のアンジュー公を候補に推した。カルロス2世は、フランス王位継承権の放棄を条件にフィリップをスペイン王位継承者に指名し、スペイン本国と全領土の一括相続を命じて、1700年11月に没した。ルイ14世はフランス王位継承権を保持させたまま、「フェリペ5世」を名乗らせて即位させ、フェリペは翌1701年にマドリードへ入城した。しかしフランスの勢力拡大を快く思わなかった各国は反対し、特にオーストリア・ハプスブルク家が戦争を仕掛けた。これがスペイン継承戦争である。
当初は、複数の王国から成るスペインの事情から、各王国の法を尊重すると宣言し、1702年にはイタリア戦線でフランス軍を助けた。しかし1703年にポルトガルが敵に回り、1704年にはイギリスにジブラルタルを奪われた。1705年に戦時の徴兵や徴税に反発したカタルーニャなどが同盟側につき、同盟軍はカール大公をカルロス3世として擁立してバルセロナを占拠した。スペインは二分され、1706年にはマドリードを奪われて一時ブルゴスに退いた。フランスの将軍ベリック公が奪還してからは優勢となり、1707年のアルマンサの戦いで大勝してアラゴンとバレンシアを征服した。1713年のユトレヒト条約で同盟軍が撤退し、翌年にカール大公とも和睦して、スペイン全土がブルボン家に平定された。戦争の結果、ネーデルラントとシチリア島は失われた。
王位が承認されると、フェリペ5世は中央集権化を進めた。1707年からアラゴン、バレンシア、マヨルカ、カタルーニャに新組織王令を発布して地方の特権を廃止し、カスティーリャの法に一本化した。戦時中に支持したナバラとバスクは特権を認められた。1724年には外務、法務、財務、陸軍、海軍を担当する5つの省を新設し、貴族中心の顧問会議を形骸化させた。徴兵制や連隊制度を導入し、カディスなどの造船所を設けて海軍を強化した。財政では重商主義を採り、アメリカとの貿易港をセビリアからカディスに移した。外交ではイタリア領の奪回をめざし、ポーランド継承戦争でナポリとシチリアを取り戻し、オーストリア継承戦争でもパルマを再獲得した。
1724年に長男ルイス1世に王位を譲ったが、ルイスは同年のうちに天然痘で急死し、フェリペは再び王位に就かざるを得なかった。フランスで育ったためスペイン語が話せず、スペインへ旅立つ際、祖父ルイ14世から「よきスペイン人であれ。されどフランス人であることを忘れるな」と言われ、国制と文化をフランス風に改めた。躁鬱病に悩み、1701年にサヴォイア公の娘マリア・ルイーザと結婚し、彼女が1714年に没すると、エリザベッタ・ファルネーゼと再婚した。晩年は病が悪化し、昼夜が逆転した生活を送った。1746年7月9日に没し、遺言により、自ら建てたラ・グランハ宮殿附属教会に葬られた。フェルナンド6世が跡を継いだ。
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